女帝の時代を探訪する  第九講 父中大兄皇子に祖父を殺され、母を狂死させられた鸕野皇女

2018年3月15日
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第九講 持統天皇ー前編 父に祖父を殺され、母を狂死させられた鸕野皇女

   1、鸕野皇后の謀略で大津皇子事件が起こったか

大津皇子像 薬師寺蔵

渡辺結衣:いよいよ一番女帝として実権をふるったとされている持統天皇のお話ですね。持統天皇という諡は、皇統を保った、引き継いだということで、その場合に、天武天皇の皇子たちを差し置いて、父である天智天皇の皇統を引き継いだということに意味があるのか、兄弟相続から親子相続に戻して、不改常典を確立したところに意味があるのかいろいろ議論があるようですが。

やすいゆたか:それが大きな謎ですね。それは結局持統天皇の価値観というか何を最も大切に考えていたのかをめぐって、解釈に対立があるのです。

渡辺:彼女は夫天武天皇が崩御して、すぐに息子の草壁皇子の即位を確実にするために、大津皇子を謀反に追い込んで、殺していますね。でも息子がそれでショックを受けたのか、寝込んでしまって、即位できなかったので、称制という形で天皇の職務を代行したのですが、息子の草壁皇子が亡くなったので、自分が即位しています。

やすい:彼女は皇后時代に、天武天皇が病弱だったこともありますが、「天皇の執務に侍っては、常に政事に言及し、よく天皇を輔佐された」と書紀に記されているので、やりてみたいに捉えられて、大津皇子の謀反についても、皇后の謀略だと決めつけられますが、別に皇后の謀略だという証拠があるわけではありません。

渡辺:だって、大津皇子の謀反計画に関係した人々は皆皇后が許しているでしょう。それは皇后が彼らを大津皇子に近づけて、謀反をそそのかさせたからではないのですか。謀反の共謀者を無罪放免するというのは有り得ないのじゃないですか?

「皇子大津(おおつ)謀反(みかどかたぶけむ)。詿誤(あざむ)かえたる吏民(つかさひと)、帳內(とねり)やむことをえず。今皇子大津已に滅びぬ,從者(ともびと)の皇子大津に坐(かか)れるは,皆これを赦す。但(ただし)礪(と)杵(きの)道作(みちつくり)は伊豆に流せ。」又詔して曰く:「新羅沙門行心(かうじむ)皇子大津の謀反に與(くみせ)れども,朕(われ)つみするに忍びず。飛驒國(ひだのくに)伽藍(のてら)にうつせ。」

やすい:だから皇后は心に疚しいところがあれば、関係者を赦すなんてできなかった筈です。罪を問われなかった連中は、皇后の指図で、大津皇子に接近して、謀反に追い込んでいたと疑われるからです。皇后は、帝と政事の事で色々意見を交わしていたぐらいですから、相当聡明な人だったので、もし大津皇子を謀略で嵌めたのなら、その黒幕ではないかとすぐに疑われるような真似はしないでしょう。
 大津皇子は天武天皇の皇子たちにとってはもうひとりの自分のようなものですから、大津皇子が皇后に嵌められて抹殺されたと感じたら、彼らは皇后を中心にまとまろうとはしないはずです。皇子たちの支持なしでは皇親政治は成り立たないので、私は、皇后は大津皇子を嵌める謀略の存在は知らなかったし、もちろん関係してもいなかったと思います。

2、人殺しの子は人殺しか?

渡辺:なるほど、それも一つの解釈ですね。それじゃあひとつ持統天皇の生い立ちから振り返って、持統天皇が大津皇子を彼女の意志で抹殺したかどうか、検討してみましょう。彼女は乙巳の変六四五年に誕生しています。彼女の父葛城皇子は、蘇我氏を分断するために蘇我石川麻呂の遠智媛と政略結婚しました。姉が大田皇女で二番目が鸕野讚良皇女、後の持統天皇です。その下に唖のまま八歳で夭折した建王がいました。

やすい:前回は間人皇女が中皇命だったとして、建王の出産は遠智媛の狂死した直前にあたるために、果たして、父を讒言によって殺した夫と交わり、子供を作るだろうかという疑問があり、建王は遠智媛の子だったことにしているが、葛城皇子の同母妹の間人皇女との近親婚で出来た子ではないかというお話をしましたね。

渡辺:葛城皇子の両親が田村皇子(舒明天皇)と寶皇女(皇極・斉明天皇)で、二代続けて同母兄妹婚だったとしたら、建王が唖で八歳で夭折というのも近親婚による劣性遺伝の影響かもしれないという話でしたね。今日は、鸕野讚良皇女の目線からですので、建王の話は棚上げにします。彼女の父である葛城皇子(中大兄皇子)は彼女の祖父である蘇我石川麻呂を乙巳の変で手を組みながら、大化5年(六四九年)讒言に騙されての暴走か、あるいは讒言を利用して殺したのか、ともかく殺して、彼女の母を狂死させてしまった、これは建王の誕生した六五一年の事とされています。ですから母の死は数え歳で七歳の時です。これは幼い子にとって大きなトラウマになったでしょうね。

やすい:吉野裕子は『持統天皇ー日本古代帝王の呪術』で指摘しています。
「鸕野皇女の目は、既に事の真相をある程度までは見抜いていた。事の真相とは、この石川麻呂の変が、父、中大兄のうちに潜む比類ない非情さと残忍さに負うという事実である。」
「そのような悲しみにも決して打ちのめされることのない強い心も、この変が幼い皇女に野越した置土産の一つとみたいのである。」
「置土産はほかにもある。それは皇女の無意識下に属することであろうが、父の異常なまでの権力に対する執着心の継承である。もちろんそれは既に彼女の血のうちに受け継がれ、醸成されていた天与のもので、この事変を俟つまでもないものではあったろう。しかしたとえ無意識にせよこの変によって彼女の心中に触発されたものの一つでもあったはずである。」 

渡辺:なかなか鋭い観察ですね。血腥い権力闘争の渦中で生まれ育った皇女が、たくましく生き抜こうとすれば、そういう宿命を背負わざるを得なかったということでしょう。

やすい:そうでしょうか?私には吉野裕子の受け止め方は、「盗人の子は盗人、人殺しの子は人殺し」という偏見だと思います。なにか動かしがたい証拠でも有るのだったら別ですが、皇后が謀略で大津皇子を謀反に追い込んだという何の証拠もありません。
  犯罪者の子が犯罪者に成ることもありますが、逆に父が祖父を讒言で殺し、母がそのショックで狂死したという体験から、互いに愛し合い、慈しみあって、和の精神で家族や社会や国家をまとめていこうとする生き方に目覚める場合もあると思います。
 皇親政治は、皇族という大家族が心と力を合わせ、助け合って、理想の国造りをしようという理念でした。持統天皇のその和の中心にいて、よくまとめていたのですから、確たる証拠もなしに、権力のための殺人鬼と決めつけるべきではないでしょう。

3、大津皇子が長子だという『懐風藻』

渡辺:書紀には「皇子大津は、天渟中原瀛(あまのになはらおきの)真人(まひとの)天皇(すめらみこと)の第三子(みはしらにあたりたまふみこ)也。容止(みかほ)墻(たか)く岸(さが)しくして、音辭(みことば)俊(すぐ)れ朗(あきらか)なり、爲(ため)に天命(あめのみこと)開(ひらかす)別(わけの)天皇の愛(めぐ)まれたまふ、長(ひととなる)に及びて辨(わきわき)しくして才學(かど)有(ま)す、尤(もと)も文筆(ふみつくること)愛(この)みたまふ、詩賦の興(おこり)、大津より始れり。」とあります。やはり謀略で殺して置かないと、草壁皇太子の即位の妨げになると思ったのではないでしょうか?

やすい:六七二年壬申の乱で、翌年天武天皇即位です。六七九年吉野盟約で息子の草壁皇子は、皇子の代表者になり、六八一年に正式に立太子しています。ですから息子のために大津皇子を急いで殺す理由はありません。六八六年9月に天武天皇崩御、翌月大津皇子の変が起こったのです。

渡辺:『日本書紀』はあくまでも持統天皇の皇統が支配していた時代に編纂されていますから、大津皇子より草壁皇子が年長だったことにしていますし、立太子したのは大津皇子ではなく草壁皇子だったことにしていますが、『懐風藻』(画像)では大津皇子は「太子」と呼ばれていますし、大津皇子は天武天皇の長子だと書いてあります。

やすい:『懐風藻』にそう書いた意図は分かりませんが、長子は高市皇子ですね。太子骨法、是れ人臣の相にあらず」という新羅の僧行心の台詞を受けて、そう書いたのかも知れません。新羅から来たばかりで、大津皇子が利発で、しっかりしていて皇子たちを仕切って居るように見えたので、つい太子だと思い込んだのかもしれません。

渡辺:『日本書紀』『懐風藻』のどちらを信用するかですが、『日本書紀』は当時の皇統の正統性を取り繕うためのものですから信用できませんが、その点『懐風藻』の方が信用できるのではないですか。

やすい:もし大津皇子が太子であれば、後継者に決まっているので、行心が「逆謀」つまり謀反を勧める筈がありません。草壁皇子は朱鳥元年(六八六年)7月には重態に陥った天武天皇から母と共に大権を委任されたのです。

「癸丑、勅曰、天下之事、不問大小、悉啓于皇后及皇太子。〈癸丑(十五日)に勅に曰く天下の事大小を問わず悉く皇后及び皇太子に啓せと〉」

仮に大津皇子が皇太子だったとしたら、権力は半分掌中にあったわけですから、殯を抜け出して伊勢に行ったりすることもなかったでしょう。大津皇子にすれば、草壁皇子が即位する前に事を起こさなければ、即位されてしまうと、有能な皇子は始末されてしまうのではと焦ったかもしれません。
 だから『日本書紀』と『懐風藻』の記事がどちらが信用できるかと言われても、内容次第であり、『日本書紀』は権力者が編集したからごまかしが有るのは事実だとしても、どの部分をどうごまかしたかは内容を吟味しなければはっきりしません。

                            4、草壁皇子と大津皇子の生誕地

渡辺:鸕野讚良皇后(持統天皇)が大津皇子を謀略で殺し、草壁皇子が亡くなった後は、高市皇子が即位すべきところを、高市皇子を太政大臣にして、自分は天皇に居座ります。そして孫に皇位継承するのに、高市皇子は邪魔なので、高市皇子も毒殺していますね。権力を握り、それを自分の思い通りに継承させようとすると、たとえ親子・兄弟・親族でも殺してしまうところはやはり父親である中大兄皇子の血を引いているといえるのではないですか?

やすい:吉野裕子は、草壁皇子の死も持統天皇の謀略であると決めつけています。つまり当時は、道教がはやり、五行説に基づく歴史解釈で天武天皇は火徳の君だから次は土徳の君である鸕野讚良が天皇になるべきだと確信して、皇太子草壁皇子を抹殺させたという解釈をしています。

渡辺:そこまで決めつけるとなるとえぐいですね。それに五行説は王朝自体が五行〈木火土金水〉の徳を持っていて、その徳が衰えると次の王朝に交替するという歴史観ですから、それを吉野さんのように天皇個人の徳の問題に応用するのはどうでしょう。
 唐では則天武后が息子を皇帝にしたものの、頼りないので、毒を与えて、結局自分が皇帝になっています。同時代なので鸕野讚良もやりかねないという解釈でしようね。

やすい:唐は皇帝独裁体制の下での律令体制です。壬申の乱後の日本は皇親政治体制です。確かに天武天皇は絶対的な権力を掌中にしたのですが、豪族勢力の抬頭を恐れて、皇親を重要な役職につけて皇室全体で国家を支配する体制を固めようとしたわけです。そして吉野盟約によって、天皇・皇后は天智・天武・大友の皇子たちを自分自身の皇子として大切に扱う事を誓い、皇子たちは天皇を支えることを誓ったわけです。そして皇親会議で話し合って決めていく体制ができたわけです。天武天皇崩御後は高市皇子が太政大臣でしたから、彼が政策を策定し、皇后は皇親政治のまとまりの中心であり、シンボルであったわけです。だから皇帝独裁権力のイメージとはだいぶ違います。

渡辺:皇親政治という場合に、六七二年の壬申の乱で皇子たちが活躍したというのが実績としてあるからでしようね。

やすい:高市皇子は18歳で大活躍したのですが、草壁皇子はまだ10歳でした。大津皇子は9歳だということですね。大津皇子の方が年上だと『懐風藻』ではなりますが。

渡辺:草壁皇子や大津皇子は筑紫で生まれたのですか?斉明天皇が百済再興のために新羅に侵攻しようとして、六六一年筑紫朝倉宮に遷ります。しかし神木を伐採して朝倉宮を建立したので神罰が下って、と言われていますが、疫病で斉明天皇が崩御されました。この筑紫行きの船に大海人皇子の妃だった大田皇女も乗っていたのです。正月6日海路につき、8日大伯海に至った時に、皇女を出産したので大伯皇女と呼ばれます。ということは当然夫の大海人皇子も乗っていた筈ですね。当時の大海人皇子の活躍が『日本書紀』には全く触れられていないことが取りざたされますね。

やすい:それは中心は中大兄皇子だったからで、それ以上の意味はありません。朝倉宮は内陸部にありますね。出陣は香椎宮があった博多湾つまり那大津からですから、新羅・唐が攻めてきた時のことを考えていたと思います。ところが朝倉宮で神木を伐った祟で疫病のために斉明天皇が崩御されたのが七月24日で八月1日に磐瀬宮に棺が運ばれました。その日に「朝倉山上鬼有り、大笠を著(き)て喪儀を臨視す。」この鬼は蘇我の蝦夷か入鹿の怨霊と言われていますね。

渡辺:それでいったん10月に難波に帰還して天皇の喪儀をするわけですが、また筑紫に戻ります。皇太子は長津宮にいたようですが、那大津と同じ場所なのですか。

やすい:でしょうね。わざわざ別の場所というのは不自然ですし。それで草壁皇子も大津皇子も博多湾の那大津で生まれたということなのです。

渡辺:草壁という地名が博多湾にあったのですか?

やすい:南北さかさまの博多古図に草香江がありますね。そこのほとりで生まれたので草壁皇子です。那珂川河口の津ということで長津であり、大津とも呼ばれ、大津皇子の生誕地でもあるということです。

渡辺:そうしますと大田皇女は六六一年に大伯皇女を生んだので、その弟の大津皇子は六六三年で、鸕野讚良皇女が草壁皇子を六六二年に生んだという方が自然ですね。やはり草壁皇子の方が大津皇子よりも一年ほど年上ということですね。

やすい:年子ということも有るので、一概に言えません。ただ後代の歴史研究者にとっては、実は大津皇子の方が年長だったけれど大田皇女が亡くなって、讚良皇女が皇后になったので、強引に草壁皇子を皇太子にして、邪魔になった大津皇子を謀略で殺したとしたほうが、ドラマティックなので飛びつきやすいですね。

 5、額田部王一対大田・讚良二のトレードか?

船岡山・額田王

船岡山公園の陶板画

渡辺:ところで大田皇女、讚良皇女の姉妹は、両親が同じです。中大兄皇子(葛城皇子)と遠智媛です。中大兄皇子は弟大海人皇子に自分の大切な娘を姉妹セットで嫁がせたのですが、それは大海人皇子が額田王を兄中大兄皇子に差し出す見返りですか?一対二のトレードだったとしたら姉妹にとっては屈辱的ですね。

やすい:それは一つの解釈ですね。ただ、大海人皇子が差し出したのは自分の妃です。中大兄皇子は妃ではなく、自分の娘を嫁がせているのですから、妃の交換ではありません。これは皇位の兄弟相続制に起因していると解釈した方が説得力があります。

❏親の世代も兄弟相続だったわけです。舒明天皇⇛皇極天皇⇛孝徳天皇という流れは。神野勝さんの説だと田村皇子と寶皇女は同母兄妹婚だったというのですから。その解釈は間違っていても寶皇女と軽皇子は同母姉弟は間違いありません。とすると葛城皇子(中大兄皇子)とすれば兄弟相続を想定して末っ子の弟が帝位を継ぐと、今度は親子相続になる可能性が強いので、自分の孫にいくように娘を嫁がせるというのは賢明な策ですね。大江皇女、新田部皇女も天智天皇の娘で天武天皇の妃です。

6、不改常典を大海人皇子は破ったのか?

渡辺:でも天智天皇は息子の大友皇子に継がせたいのが本音だろうと大海人皇子は忖度して、天智天皇が死期が迫った時に大海人皇子に皇位を譲りたいと言った時も、身を引いて出家して吉野に籠もりましたよ。

やすい:それは大友皇子がなかなか才気があったので、まだ24歳だけれと継がせたくなったからでしょう。天智天皇は、大海人皇子の皇位継承辞退を承認してしまいます。大海人皇子が大友皇子を後見するような形を整えるなど後から紛争にならないような手立てが必要だったわけですね。

渡辺:皇位継承の原則を「不改(あらたむまじき)常(つねの)典(のり)」というのでしょう。天智天皇から大友皇子に直系親子相続なのでこれは「不改常典」に則っていたわけですね。ところが壬申の乱で大海人皇子は、大友皇子を殺して、兄弟相続にしてしまった。にもかかわらず、持統天皇から孫の珂瑠皇子に継承する際には、直系相続が「不改常典」だという、ということは「壬申の乱」の正当性は否定されたのですか?

大友皇子(弘文天皇)法傳寺所蔵

やすい:それは重大な問題ですね。兄弟相続にすると、兄弟間に相続争いが生じ、豪族が分裂して内戦になりやすいので、直系相続がいいというので、仁徳天皇までは直系だったことになっています。それが兄弟相続になりまして、骨肉の争いも起こります。中大兄・大海人皇子兄弟も、兄弟相続という頭があったので、中大兄は大海人に四人も娘を輿入れさせているわけです。
 でも大友皇子が英明なので天智天皇は本音では親子相続を望んでいると忖度して、大海人皇子は謀略家の兄の気質もわかっていますから、「君子危うきに近寄らず」ですね。「ここにおいて、再拝し、疾と称して固辞して受けず」です、皇太子だから受けて当然なのに、病気だから無理ですと仮病で言い訳したのです。そして大友皇子はまだ若いので、舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子の娘である皇后の倭姫大后を天皇にして、大友皇子に諸々の政を執り行っていただくようにしましょう。つまり推古女帝・厩戸皇子摂政のような形ですね、それを提案して、自分はさっさと髪を下ろして沙門になって吉野に籠もったのです。

渡辺:でも大友皇子は大海人皇子を信じられなかったので、吉野への道を塞いだりして敵対的な行動にでたので、結局壬申の乱になってしまったわけですね。もし大海人皇子の提案通りしていれば、内乱にはならなかったということですか?

やすい:歴史に「~たら、~れば」は言えませんが、大海人皇子は、直系相続が内乱を防ぐ正しい皇位継承のあり方だと認めたから、身を引いたわけで、直系相続でいくのなら、大海人皇子を信じて寺に寄進するなどすればよかったかもしれません。だから大海人皇子は兄弟相続の方が直系相続よりいいという立場ではなかったのです。

渡辺:持統天皇十年に次期天皇と目されていた高市皇子が急死しました。『懐風藻』(画像)によりますと、持統天皇は日嗣つまり皇太子を決めるために王公卿士を集めて宮中で議論させたのです。その時大友皇子の皇子葛野王が次のように言いました。
「我國家の法たるや、神代より此の典を以つて仰いで天心を論す、誰か能く敢へて測らむ、然も人事を以つて之を推さば、從來子孫相承して、以て天位を襲ぐ、若し兄弟相及ぼさば、則ち亂れむ。聖嗣自然に定まれり、此の外誰か敢へて間然せむや。」
 つまり直系相続こそ不改常典だという主張ですね。それで孫の珂瑠皇子への皇位継承が決まったということです。

やすい:ですから壬申の乱は「不改常典」に基づいた大海人皇子の行動を大友皇子が信頼しなかったことから生じた悲劇であり、二度と兄弟で皇位を争って戦争するなど繰り返してはならないから、珂瑠皇子を皇太子にしようという趣旨です。

                                   7、持統天皇は親馬鹿、婆馬鹿か?

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/016/912/52/N000/000/000/133868877727813222948.jpg渡辺:舒明・皇極の血統という意味では、天智でも天武でもいいわけですね。ただ持統天皇は自分が腹を痛めた草壁皇子や孫の珂瑠皇子に継がせたい気持は強かったでしょうね。

やすい:それが母馬鹿、婆馬鹿説です。梅原猛先生のアプローチはこれですね。しかし、皇親政治を守ろうとしたら、親馬鹿や婆馬鹿は表に出したら駄目なのです。確かに心中には草壁皇子の立太子を急いだり、無理にでも孫の珂瑠皇子を皇太子に決めたいと思っていても、そんなことはおくびにも出さないようにしていたはずです。

渡辺:いやー、かなりやりたいようにやったという印象がありますね。それは結果として天皇になったり、ライバルの皇子たちが消されていったり、孫に譲位できたりで結果論で見るからですか?

やすい:それは鸕野讚良皇后=持統天皇を中心に皇子たちがよくまとまっていたからなのです。みんなで支えようとしたからです。ということは皇子たちに慕われていた、愛されていたのです。それはもちろん吉野盟約を守っていたからです。つまり母違いの皇子とか、天智天皇や大友皇子の皇子でもわけ隔てなく、愛情を持って接していたのです。

渡辺:それはうまくそのようなふりをしていただけで、やはり世継の問題になると親馬鹿、婆馬鹿がむきだしになったのじゃないのですか?

やすい:だから草壁皇子が皇太子になったのは、高市皇子は母親の身分が低かったので皇太子になれなかったわけですね。草壁皇子と大津皇子は草壁皇子の方が一年年上だったとしたら、皇后が特に推さなくても天武天皇は草壁皇子を皇太子に選んだでしょう。

渡辺:天武天皇は草壁皇子を皇太子にしてからも、大津皇子に政治に参与させています。天武天皇は皇后の気持を忖度して草壁皇子を皇太子にしたけれど、大津皇子の才覚を見て、本当は大津皇子に後継を任せたいと思っていたのではないでしょうか? その気配を感じたので、皇后は、大津皇子を謀反に追い込む工作を命じたのではないのですか?

やすい:それは皇親政治と皇帝独裁政治を混同した捉え方です。草壁皇子を皇太子にし、次期天皇にするためにもそれを有能な皇子たちで支える体制づくりが欠かせません。その意味で大津皇子を起用するのは全く矛盾しません。皇帝独裁だと皇帝のライバルになりうる大津皇子は、出家させるなりして遠ざけることになります。持統天皇は大津皇子亡き後は、高市皇子を太政大臣に起用して皇親政治を継続しました。

渡辺:その高市皇子が太政大臣として実績を積んで、次の天皇だと衆目が一致したので、孫に皇位を継がせようと思った持統天皇は高市皇子を毒殺したのではないのですか?

やすい:それこそ冤罪です。持統天皇は大津皇子も草壁皇子も死んだので、高市皇子に天武天皇の天皇位は当然継がせようと思っていましたが、当人から断られたと思います。大津皇子を謀反に追い詰めた勢力から、脅かされていたのかもしれません。即位しようとして殺されるよりも、太政大臣になって持統天皇の許で皇親政治を発展させたいという考えです。

渡辺:謀略の首謀者が皇后だとは疑っていなかったのですか?

やすい:ええ、疑っているのは結果論にたった後世の歴史家たちです。皇親政治を発展させるには、大津皇子や高市皇子などの有能な人材は必要ですし、草壁皇子亡き後は高市皇子に皇位がいって当然です。しかし皇親政治を潰したい勢力は高市天皇を阻止したかったわけです。それで持統天皇が正式に即位することで、皇親政治を当面は守り、時期が来たら高市皇子に帝位を譲るつもりだったのです。

「高市皇子」の画像検索結果

里中満智子『天上の虹』の高市皇子と十市皇女

渡辺:そんなお人好しな持統天皇像はやすいさんだけでしよう。何か根拠でもあるのですか?

やすい: 高市皇子は「後皇子尊」という尊号を与えられています。これは「次に皇位を継ぐ皇子」という意味が込められています。持統天皇は、天皇に即位するにあたって高市皇子を皇太子にしようとしたけれど、それではテロの対象になる恐れもあるし、太政大臣という臣下が皇太子を名乗るのは相応しくないことで立太子を辞退したのです。それで持統天皇が皇太子の代わりに「後皇子尊」という尊号を与えたのでしょう。こういう尊号は天皇以外の人は与える権限は持っていないと思われませんか。


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