小此木啓吾の精神分析―現代人の諸類型―

2018年3月8日
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『人間論の大航海下』より「第五章 小此木啓吾の精神分析 ―現代人の諸類型― 」がFFFTPの容量制限で入力できなかったのでこちらに暫定的に置いておきます。頁数はPDF版の際のものです。

第五章 小此木啓吾の精神分析 ―現代人の諸類型―

 

目次

はじめに82

第一節、モラトリアム人間の時代85

第二節 アイデンティティ人間90

第三節、シゾイド人間93

第四節、償い型の罪の意識97

第五節、自己愛幻想101

第六節、意識の構造105

第七節、対象喪失109

第八節、家庭のない家族の時代110

第九節、宇宙人=操作人間117

小此木啓吾の精神分析 ―現代人の諸類型―

 

(この論稿は一九九二年のものですから小此木啓吾先生はご健在でした。『状況と主体』にこの論稿が掲載されたのを喜ばれ、『映画でみる精神分析』(彩樹社、一九九二年)を恵贈していただきました。)

 

はじめに

一、「~人間」

❏「モラトリアム人間」「シゾイド人間」「自己愛人間」「操作人間」等々、下に「人間」が付く「~人間」という表現がありますね。これを使って現代人の代表的性格を浮き彫りにしているのです。「~人間」を発明する天才が小此木啓吾(1930年1月31日 ~2003年9月21日)です。小此木は精神科医としても精神分析学者としても著名ですが、彼の「~人間」を使った啓蒙的な著作は、1970年刊行の『エロス的人間論』(講談社現代新書)以来根強い人気を得ています。特に『モラトリアム人間の時代』は大変なブームを呼びました。

❏「五時まで男」もいれば「五時から男」もいます。元々「真面目人間」だとか「遊び人間」だとかいう表現は、人間の数ある類型の中で特殊な一つの型を示していました。典型的で代表的な人間類型を示す用法ではなかったのです。小此木は、「モラトリアム人間の時代」という表現で、これまで特殊類型だった一つのタイプを、現代人の普遍的性として印象づけることに成功したのです。「現代人はモラトリアム的性格をもつ。」と言われても、現代人にはその他にもいろんな性格がある、と思われてしまいます。ところが「モラトリアム人間の時代」と表現しますと、現代人はモラトリアム的にしか生きられないんだと納得させられてしまうのです。

❏それに「~人間」という言葉は、独特の実在感を誘います。「あ、自分もシゾイド人間だ。」とか「横山やすしは完全に自己愛人間だ。」と思わされてしまいます。説得力が治療に決定的な役割を果たすのが精神科医ですから、小此木がいかに名医か、これだけからでも納得できますね。

         二、適応              

❏小此木は精神科医です。精神分析を手段に心の病を直すのが仕事です。心の病は現代社会に適応できないことが原因で起こります。ですから精神科医としましては、心を病んだ人を、現代社会に適応できるようにする治療を行っているのです。現代社会に適応するには現代社会にフィットした社会的性格を身につけておかなくてはなりません。「モラトリアム人間」「シゾイド人間」「自己愛人間」「操作人間」等は、現代社会に適応するためには誰もがそのような人間として生きなければならない社会的性格なのです。そのような人間になるのが良いか悪いかの問題ではありません。我々は現代社会にどうにか適応して生きているのですから、既に大なり小なりそういう性格にそうなっているのです。そういう性格になれなければ現代社会に不適応を起こして、心の病に罹り易くなったのです。

❏小此木が「モラトリアム人間へのすすめ」を説くので、彼の主張は時代の流れに迎合する体制順応主義だ、と決めつける論者もいるようです。しかし鬱病や分裂病、ノイローゼに苦しむ人々を治療するためには、時代に合った生き方を選択するように働き掛ける他ありません。それができなければ、精神科医の看板を降ろさなければならないでしょう。

❏確かに安易に時代に順応して自分の性格を改造するというのは、考えものです。阿久悠作詩『時代遅れ』ではないけれど、時代を越えて滅びない真実を守り通すために、頑固に自分を変えないことも大切でしょう。とはいえ、だれしも時代の波を乗り切らなければなりません。現代がどういう人間を求め、どのような生き方をしなければ取り残されてしまい、自分の本領が発揮できなくなる時代なのか、良く分かっていなければなりません。小此木に精神分析界の新保守主義の親玉というレッテルを貼りつける前に、彼からしっかり学んでおかなければ、取り返しが付かない結果が我が身に降りかかるかもしれないのです。

❏それに彼は無批判に現代人の性格を讃美しているのではありません。現代人の社会的性格が、決して避けることができない万古不易の自然人としての現実原則を隠蔽し、素直な人間相互間のエロス的交流を歪めていると批判しています。そしてそれがまた心の病の原因とも成ることをはっきり指摘しています。

❏つまり現代人としての社会的性格を生きながら、常に自然人であることを忘れないで、身も心も包括したエロス的な相互交流に基づいて生きるように薦めているのです。その意味では現代批判の視点を、彼の確固とした自然観・人間観の中に持っていると言えるでしょう。

❏でも「自然人」といい、「エロス的人間」といい、各時代によりその在り方や捉え方は随分違って当然です。不変の超歴史的原理として、それらを基準に各時代人を相対化し、批判するのは容易なことではありません。それで小此木の展開もその点は歯切れが良くないようです。

 第一節、モラトリアム人間の時代


目次

一、モラトリアム延長心理
二、あれかこれか
三、自己決定不能症
四、あれもこれも
五、急変する職業
六、モラトリアム人間の時代

 

      一、モラトリアム延長心理

「エリクソン」の画像検索結果

エリクソン

❏エリクソン(1902年~1994年)は、1950年代に特定の職業に固定したがらない「アイデンティティ拡散症状群」を精神病理学的状態として記載しました。ところが1960年代以降には、これはノーマルな現代青年に特有なモラトリアム延長心理と見なされるようになったのです。元来は「モラトリアム」とは金融用語で「支払猶予」を意味し、金融恐慌に際して預金者保護の為に銀行が債務の支配を猶予された事態を指します。それが青年が定職に着いてしまうのを猶予される期間の意味に転用したのです。

❏職業の選択による社会的な自己の決定は、自分の可能性の限定です。それは現代社会においては巨大な会社、官僚組織に呑み込まれることを意味します。実存主義者のように呑み込まれることを拒否し、自由に生きようとすれば、かえって映画の中のチャップリンのように、浮浪者のような生活に甘んじなければならなかったのです。

❏彼は山高帽子にだぶだふの燕尾服を着込み、杖を器用に操って登場します。この出で立ちは心はイギリス紳士の衿持を持ち、全能幻想を抱いていることを象徴しているのです。でも現実は常に惨めなチャップリン、彼は本心では体制に呑み込まれたくなかった庶民たちの共感を呼んだのです。しかしチャップリンの生き方は、所詮実存主義のパロディでしかありません。

❏第二次世界大戦はアメリカ資本主義の世界制覇をもたらしました。アメリカ本国では巨大な資本蓄積を背景にして、モラトリアム期間の延長が可能になりました。それでチャップリンの生き方はパロディとばかりは言えなくなったのです。

       二、あれかこれか

キルケゴールとニーチェ

❏「主体的真理」に拘ったキルケゴールは、主体的な決断を重視しました。世間体や流行に流されて、自分の頭で考え決断することを忘れた現代人を鋭く批判しています。彼は、愛するが故に断腸の想いでレギーネとの婚約を破棄した自分に対して、主体の苦悩を思いやることもなく、浅薄な非難を投げかけた世間に強く反撥していたのです。主体的に自己の良心において苦悩の内に「あれかこれか」を決断してこそ、はじめて誰のものでもない自分自身の人生を自分で選び択ることができるのです。

❏ヤスパースは現代を「機械と大衆の時代」として捉えました。そこでは大量生産・大量消費の機械システムの下で、大衆は画一化して捉えられ個性を喪失させられています。主体的な決断によって選択するのではなく、流行に合わせて物事を判断し、行動します。その方がずっと楽だからです。しかしヤスパースに言わせれば、それは惰性で生きているに過ぎません。一度きりの自分だけの人生を真に生きているとは言えないのです。彼は、人間はだれしも「死・苦・罪・争い」といった乗り越えることも、避けることもできない壁である「限界状況」を生きていると捉えています。惰性的な生き方は、この人間の実存から目をそらせて逃避している生き方です。しかし真に生きるとは限界状況を見据えて生きることなのです。

ヤスパース・ハイデッガー・サルトル

❏ハイデガーの場合は、「死への先駆的決意性」を強調します。自己の有限性を見据えて始めて、存在の意味を問うような納得できる生き方を選べるということでしょうか。

❏サルトルも情況によって存在被拘束的に自己が規定されてしまうことに、意識存在として自由の刑に処せられている自己は嘔吐してしまうと言います。自己を事物のように本質規定してしまう情況にノンの叫びと共に、自己を投げ出して情況変革に参画することつまり「アンガージュマン」によって本来の自由な自己を選択しようとするのです。

❏ 実存的に「あれかこれか」主体的に選択して生き抜くことは、非主体的な大衆に人間を還元して包み込んでしまおうとする体制にとっては、排除すべき対象でしかありません。そこで会社や役所などの組織社会からは爪弾きされて、ボヘミヤンにならざるを得ないわけです。でも良く考えてみますと、皮肉ですね。主体的に決断している筈のチャップリン的生き方が、客観的に見れば、ボヘミヤンとして何者にも成れずに放浪しています。帰属して自分の「あれかこれか」のアイデンティティを決定することができません。あたかもモラトリアムのような状態にいるわけです。逆に非主体的な大衆として体制に包み込まれ、きっちり組み込まれることに成功した人間は、「あれかこれか」の自己決定をして、一定の職業や社会的地位を与えられ、自己のアイデンティティに安住しているわけです。

 三、自己決定不能症

❏それにしても最近の青年たちの多くは、自己決定を避けたがる傾向があるようです。やはり受験体制からくる偏差値偏重教育の悪弊でしょうか。理工系か文科系か、国公立か私立か、何大学かはすべて大手予備校の全国集計から打ち出されるデータ次第で決まってしまいます。自分で将来何に成りたいから、どういう学問に興味があるからという理由で受験校を決定するのではないのです。もちろん受験ですから客観的なデータを重視すべきです。しかしそれはあくまで自分の希望を実現するための手段として、最終的にどの大学を選択できるのかを知る為の資料に過ぎない筈です。情け無いことに自分の希望や選択がデータから生じるのです。

❏子供の頃から膨らませてきた将来の夢、というものが無いのです。常に目標は目前の中学受験・高校受験・大学受験にあって、よりハイレベルな学校に進学することだけが目標なのです。勉強において心掛けるべき第一の事は、どれだけ無駄な労力を省いて、受験に高得点を稼げるかという事です。「ここはやらなくてよい」と確信を持って学習内容を絞り込ませる講師が、予備校では信頼を集めるのです。

❏大学生も大して将来の夢を持っているわけではないようです。彼らは自分が所属している大学のランクから考えて、どこに就職できそうか、またどこに就職するのが有利かを判断します。在学中の成績が就職に有利なようなら優を欲しがります。クラブやサークルを除いて、大学生活や学問研究それ自体にはそれ程関心はないのです。定期試験や研究発表や卒業論文作成でも、研究内容、学問内容よりもいかに最小限の努力で効率よく得点を挙げるかが、関心の的なのです。

❏偏差値偏重の学歴社会構造の中で、ベルトコンベアに乗せられて教育工場から生産され、振り分けられた労働力商品ですから、自分の職場に対してそれ程深い思い入れがあるわけではないんです。もちろんどんな職場や役割を望むかは、できるだけ効率的に、楽に、ダサクなく高収入を得れるかが基準になります。

 四、あれもこれも

❏小此木によりますと、モラトリアムを延長したがる青年たちは、いったん就職しても、そこにアイデンティティを固着してしまうのを避けようとするそうです。なかなか腰が据わらないというやつですね。心のどこかで、本当の自分は別にあって、この仕事は本来の自分の仕事ではないと考えているからです。会議での発言を控えたり、社内での付き合いを避けたりして、会社や会社内の組織に帰属意識が希薄なままでいようとするのです。そこで彼らは多様な自己の可能性を残しておこうと「あれもこれも」的に行動するのです。いつでも転身できるように別の自己を温存しておき、成長させておくのです。

❏パソコン操作等新たな技術に挑戦したり、司法試験や実務英語検定その他の資格試験に挑戦したり、様々な免許を取得したり、何かの趣味を徹底して一流を目指したり、常に時代の流れや経済情勢や業界の動きに敏感になり、登用や引き抜きのチャンスを窺ったりするのも、転身願望の現れかもしれません。こうした「あれもこれも」型の生き方の方が、産業の栄枯盛衰や職種の寿命が短くなった現代の高度産業社会=情報化社会=ハイ・テク社会にはフィットしているのです。

   五、急変する職業

❏ハイテク化に伴って不要になった職業が次々生まれています。時計屋は時計の販売だけでなく、時計修理もできることで成り立っていましたが、最近のクオーツ化によって時計の修理はほとんど不要になり、修理代を払うよりは新製品を買った方が安いようになりましたので、旧来の時計屋は不要になったのです。修理の必要性が減少しますとアフターサービスが売り物だった家電業界に流通革命が起こっています。いわゆ系列専売店は、安売り店の進出に押されて急減しつつあります。また自動販売機の普及で煙草屋の存在は影が薄くなったようです。そしてスーパーコンピューターで効率的な品揃えができるようになったスーパーマーケットやコンビニエンスストアーの展開で、すっかり町の商店業界は様変わりしてしまいましたね。

❏1970年代はスタグフレーションに襲われ、企業は高度成長時代に身についた贅肉を落とす減量経営で、これを乗り切りました。この時期の試練で日本経済は足腰が鍛えられ、国際競争力が強化されたと言われています。減量経営の内容は、人減らし合理化で思い切って人員を削減して(女子パートタイマーで補充するなどアンフェアなやり方も目立ちました)、なおかつ生産性は維持することでした。その際、終身雇用制で解雇できない場合は、出向や地方への配転で対応したのです。出向させられた労働者は、せっかく一流大企業に就職できたと思っていたのに、下請けの関連企業に回されてしまったのですから、大変な精神的ダメージを受けたようです。

❏人減らしと並んで、省エネ・省資源の技術革新が進みました。その際威力を発揮したのが半導体によるマイクロ・コンピューターを利用した工場や機械の管理システムです。自動車産業を中心に、大胆にロボットを導入したファクトリー・オートメーションが進展し工場の無人化が前進しました。工場で仕事がなくなった労働者が、営業に回されて苦労している姿がよく見掛けられたのです。日本的経営においては、職人的に一つの仕事しかできない単能工より、急に仕事内容が変わっても訓練次第で新しい仕事に順応できる多能工が養成され易かったのです。

❏ファクトリー・オートメーションについでオフィス・オートメーションが進展しつつあります。工場で働く人が減少するだけでなく、事務所で働く人も減少することになります。それでもまだ、どちらかと言えば人手不足ですが、その理由は、経済規模は大きくなっていますし、教育費や住居費の高騰などで子供を生まないようにしているからです。

❏ともかく工場でも、事務所でも、商店でも、学校でも仕事の種類や内容が目まぐるしく変化しているのです。常に変化の内容を正確に掴み、新たな環境や自分の立場の変化にフレキシブルに対応できなければなりません。でないといつのまにか体制から無用者として弾き出され、太田一男の指摘通り「棄民」の群れにいる自分を見出すことになりかねません。

      六、モラトリアム人間の時代

「『モラトリアム人間の時代』」の画像検索結果❏組織人間自身が現代社会の変動に対処するために、自分の今の職業に固着しようとする意識を捨て去って、多面的に自分の可能性を追求しようとしているのです。そうでなければ時代の変化に置いてけぼりにされる危険があるのです。今の仕事がいつ無くなっても、何か別の職業でも充分やっていけるだけの能力を、予め養成しておかなければならないのです。

❏まだ社会に出て働くのはいやだから、別に学問したいわけじゃないけれど、大学に行きたいという大学生は、社会人に成ることをモラトリアム(猶予)されている状態だといえます。最近は大学院生にもそういう傾向が強くなりました。就職しても腰が据わらない連中は、実際にはモラトリアムされていないけれど、心理的にはモラトリアム状態に在ります。組織人間の場合は、もう一人の自分を作ることで心理的なモラトリアム状態を作り出しているといえるでしょう。

❏これからは経済の国際化が進展しますから、日本だけ終身 雇用制、年功序列式賃金、企業内労働組合の日本式経営(日本式労務管理)を維持することは難しくなります。それに、これだけ転職者が増加すれば、職務給・能力給の比重が大きく成らざるを得ません。実力のある人材を競争相手から破格の条件で引き抜くことも、技術職や管理職では盛んになりつつあります。ただ年功を積むだけでは評価されない時代に成りつつあるのです。より有利に評価される職業に転進していくことを積極的に心掛けないと、現在の職業自体が時代遅れになる虞れが多分にあるのです。

❏それに現在の職業に蛸壺式に徹し切るというのも限界があります。例えば、寿司職人は握り方が上手ならそれでよいというわけではありません。いかに新鮮な寿司ネタを仕入れるかが勝負の決め手です。鮮魚の流通や水槽での養魚法にも精通しておかなくてはなりません。つまり関連する業界に関しては相当突っ込んだ情報を入手し、人的なつながりを持っておく必要があるのです。現代では職業上の専門的能力は、幅広い教養と技能の上に氷山の一角として現れているものなのです。ですから専門的能力に優れた人が別の職業に変わっても、相当な活躍ができるのはそのせいなのです。

❏アイデンティティ人間の破綻で自分の職業に徹するのがダサイように受け止められるかもしれません。それで大して興味や関心がないのに専門外のことに首を突っ込んで、自分の専門がおろそかになり、新しいことも半可通に終わってしまう人もいるようです。厳しい競争社会では、そんなことでは専門分野でも職業的に失敗した上に、転進も計れなくなり、取り返しのつかない破綻に行き着く危険が多いのです。その意味で「モラトリアム人間の時代」というのは怖い時代なんです。小此木には、その点をもっと警告してくれるようにお願いしたいですね。

❏それでも小此木が流石なのは、人生全体を「死へのモラトリアム」と捉えていることです。人間は自然人としては現実原則からは逃れられません。キルケゴールの言葉を借りますと「死に到る病」なのです。この自然人の自覚があるから、きっと「モラトリアム人間の時代」を冷静に客観化できたのしょう。

 『モラトリアム人間の時代』1978年、中央公論社〕

   第二節 アイデンティティ人間

目次

一、会社人間のアイデンティティ
二、会社人間の上昇停止症状群
三、主婦の空き巣症状群

    一、会社人間のアイデンティティ

 ❏「アイデンティティ」というターム(用語)を精神分析に定着させたのはエリクソンです。単に「同一性」という意味に止まらず、「自我同一性」という意味で使います。自分を何かに帰属させることによって、自我の安定を計る働きを指しているのです。

❏例えば、家族の中にあっては「良きパパ」を演じることで家族からの父親としての精神的承認を獲得しますと、父親であるという自分に満足感を感じます。もし自分が自分自身や自分の家族が抱いている「期待される父親像」に余りにも掛け離れていて、父親としての役目を果たしていなければ、父親であるという自我はスポイルされてしまいます。その場合、父親としてのアイデンティティは確立できないのです。

❏父親としてのアイデンティティにとって一番大きいのは、何といっても一家の大黒柱としての収入の確保です。資本主義社会では、大部分の人々は土地・機械・原材料等の生産手段を購入するだけの経済力を持っていませんので、自分の労働力を資本家に売って、賃金を入手し、それで家計を賄わなければならないのです。

❏この資本と賃労働の関係が不安定で賃金やその他の労働条件が定まらなかったり、いつ解雇されるかもしれないようですと、収入が途切れてしまい、とても安心して生活を続けることはできません。資本の側も良質の労働力を安定的に確保する必要がありますから、労使の間で次第に安定的な関係が結ばれるようになっていきます。日本式経営の柱である日本式労務管理「終身雇用制・年功序列型賃金制・企業別労働組合」は、その典型的な形を示しています。植木等の歌で「サラリーマンは、気楽な稼業ときたもんだ。二日酔いでも寝ぼけていても、タイムレコーダーがちゃんと押せば、どうにかかっこがつくものさ、ちょっくらちょっとぱーにはなりゃしない。」というのがありましたね。

❏終身雇用制・年功序列型賃金には内部昇進の見込みや停年退職後の年金まで含まれていると考えられていました。会社に人生を丸抱えにしてもらうことによって、「良きパパ」のアイデンティティの確保を計ったのです。会社に全面的に依存するだけに、百%自分を会社人間にせざるを得なくなったです。

❏もちろん昇進するにもポストに限りがあります。能力や業績の評価が高くないと、次第に閑職に追いやられるのです。それで百%会社に依存している以上、自分も百%会社のために献身していることを示して、会社にとって自分自身が不可欠であることを認知してもらわなければなりません。

❏そこで、別段やり残している仕事がなくても、他人より早く出勤して、一番遅く退社します。退社後も付き合いと称して上司や同僚とネオン街や麻雀を共にし、深夜まで帰宅しません。家庭人としての自分はミニマムに抑え、会社人としての自分を常に押し出していなければ、安心できなくなっているのです。それは会社内での人間関係で孤立し、人脈や情報網から外されることを極度に警戒するからなのです。

❏小此木は、会社人間は疑似同性愛的人間関係にあるといいます。たまに早く帰宅したり、休日をゆっくり家庭で過ごしていると、不安感や孤立感に苛まれるそうです。むしろ会社の人間と付き合っていた方が、安堵感があるくらいなのだそうです。

❏ 元々「良き夫」「良きパパ」になるために働いているのに、いざ働くとなると会社は全人格、全人生を捧げて働くように要求します。この要求にまともに応えていれば、家庭にとって一家の大黒柱は単なる稼ぎ手でしかなく、精神的にはよそ者になってしまうのです。

二、会社人間の上昇停止症状群

❏1960年代は高度経済成長が目覚ましかったので、企業の規模は拡大を続けていましたから、勤続年数が長くなると後から入ってきた人数が溜まって、昇進し易かったのです。ところが1970年代以降は低成長ですから、企業の規模は余り拡大できません。それに「団塊の世代」の後は産児制限が進み、職場の人口の構成は1970年代の後半から次第に若年労働力が減っていきます。部下に成るべき人数が減りますと、当然昇進も難しくなる理窟です。

❏二十歳代や三十歳代には会社のために身を粉にして働き、大いに貢献してきました。でも管理職のポストは非常に狭き門に成ってしまっているのです。課長代理とか課長代理補佐だとか職務権限の曖昧な辞令ばかり貰うようになり、地位の向上が停止してしまいます。これまで第一線で活躍していたのに、いわゆる「窓際族」に追いやられていくのです。

❏小此木は、その原因をポスト不足のせいだけではなく、従来の会社人間では、時代の変動に機敏についていけなくなったことも原因だと捉えています。「あれかこれか」の生き方で常にもう一つの自分を犠牲にして、仕事一筋に生き抜いて自分を狭くしてきたので、仕事のやり方はこれまで通りいかなくなって根本的な発想の転換が必要になったのに、柔軟に対応できなくなっているのです。かくして四〇歳を過ぎてから、前途を悲観して深刻な鬱病に陥ることにもなるのです。

三、主婦の空き巣症状群

❏夫は会社人間で深夜に帰宅し、早朝に出勤し、休日にも付き合いでゴルフに出掛けたりしています。これに対して主婦が、夫が家庭サービスをしないといって怒ったり、離婚沙汰になったりするのは、欧米の話です。日本では「亭主元気で留守がいい。」といいますから、逆に働き者の亭主の方が安心できるようです。

❏夫が会社人間の主婦には、子育てに熱中し、母子関係の一体感の中に充足しようとする人が多いようです。受胎・妊娠・出産・授乳・保育と続く過程は、男には体験できない母子一体感の世界です。心と体の両方でエロス的交流がなされていて、母子共にそこから深い充足感を得ているのです。

❏でも母子一体感の充足は、子供の成長とともに薄れてしまいます。所詮、母と子は別の人格として分離していく運命にあります。甘やかしすぎて、いつまでも母の膝から離れられないような子供に育てますと、かえって社会への適応能力の成長がスポイルされてしまう危険が伴うのです。

❏母は子供に対して強い一体感を持っていますから、子供はもう一人の自分でもあるのです。子供が育っていく姿に、自分自身が生まれ変わって生き直しているという倒錯的な思いがするのです。そこで子供が中学・高校に通う頃までは、未だに自分が叶えられなかった夢を投影したりします。しかし大概、その期待もやがて裏切られることになります。

❏親ができなかったことをその子供に期待しても、子供が親以上に優秀であることは容易ではありません。それに子供は親によって自分の人生が左右される気がして、親の期待が鬱陶しいものなのです。親に対する反撥から勉学に取り組む意欲がスポイルされるのです。ですから受験が機縁となって子供は決定的に親と溝を作るのです。そして交遊に時間を潰して外出がちになります。これは親から分離して人格的に自立しようとする精神的な「親殺し」の過程でもあります。

❏この場合、親とは母親のことです。父親は不在なのですから。母は母子一体感に夫不在の寂しさを紛らしてきました。ただ子供とのつながりにしか自分のいきがいを見出すことができなかったのです。母である事、これが彼女のアイデンティティでした。それが精神的な「母殺し」によって、精神的な生きる支えを失ってしまうのです。

❏夫に包容力があって、妻の精神的危機を救ってくれれば、妻であることにアイデンティティを確認することもできるのですが、夫は相変わらず会社人間で不在なのです。だれもいなくなった空き巣にあって、主婦は一人落ち込んでしまいます。昼間から台所で料理酒に手をつけるキッチン・ドリンカーが増えているそうです。心の空き巣状態をアルコールに紛らわしているんですね。中年主婦の鬱病が増えているのも事実のようです。身近な人々の中に心の病に苦しんでいる人がいると言う人が多い事から推測できます。

❏あるいは虚しさを癒すために機会があれば、不倫にはしったりする場合もあり得るのです。もちろん専業主婦の場合はそれ程、不倫への誘惑もないでしょう。気持ちの上では専業主婦なのに、教育資金や住宅資金の足しにパートに出ている主婦などは心の

❏隙間を埋める何かを求める場合もあるかもしれません。会社人間の夫の方も、上昇停止状態で会社から認めてもらえない悔しさ、全てを捧げて尽くしてきた会社に裏切られた気持ちにうちひしがれていますから、自分の魅力を認めてくれ、心を開いてくれる女性が現れれば、砂漠にオアシスのような気持ちで溺れるかもしれませんね。

〔『視界ゼロに生きるーソフトな自我の効用ー』1982年 TBSブリタニカ出版〕

第三節、シゾイド人間

目次

一、分裂性格(schizoid personality
二、適応様式としてのシゾイド人間

一、分裂性格(schizoid personality

「あれかこれか」ではなく、「あれもこれも」を追求するモラトリアム人間は、心理的性格としてシゾイド(分裂症)的だと

言われます。ですからシゾイド的性格が現代社会に適応するために共有せざるを得ない性格だということになります。そこで現代人である限り、シゾイド人間にならざるを得ないことになるわけです。たとえその人が気質的には躁と鬱を繰り返す循環気質であったとしてもです。

精神分裂病は重症の場合は、人格が崩壊して、思考のつながりががなくなっていき、感情や意志が弱くなって終日ぼんやりしたり、同じ行為を繰り返し、妄想を抱きます。被害妄想がひどくなりますと、自己防衛の為に攻撃的になる場合があります。社会的性格としてのシゾイド的性格は、精神病ではないのですが、人格の統一が希薄な面等で共通な性格を示しています。

小此木はシゾイド的性格として次の三つの傾向を挙げています。

第一―人と人の関わりを避けて引き籠もる傾向。

第二―内向的、脱俗的であり、外界の出来事に対して存在感を持てない傾向。

第三―自我の統一が弱く、各場面で違った人格にカメレオンのように変化する傾向。すなわち、「いつも~かのように演じては

いるが、本当の自我感情が貫かれていない「as if personality」傾向。
第一の「引き籠もり」傾向はどうして形成されたのでしょうか。小此木の説明では、赤ん坊の頃、母親に構ってもらえない体験がトラウマ(心の疵)となって残ることがあるのです。泣き叫んでも、お乳もくれない、おむつも換えてくれない、だっこもしてもらえない、酷い母親ですね。愛に飢え、渇望する激しい衝動が植えつけられてしまったのです。

❏成長してからも愛への飢え、渇望があり、しかも愛情を求める対象から見てられるのではないかという思い込みを持っています。それで、どうしても攻撃的に相手を自分のものにしてしまおうとする衝動が抑えきれないのです。

愛情を向ける対象に対して、攻撃的破壊的にしか関われないことを懼れて、対象との関わりを避けようとします。これが「引き籠もり」の原因なのです。現実の人間関係を結ぶことができないので、自分が作り上げた妄想の世界で生きようとするのです。

第二の脱俗的、内向的性格で外界の出来事に存在感を持てないというのも、自分の妄想に引き籠もろうとするところからくると考えれば、理解できます。
第三のカメレオン的性格やas if personality も、その場その場に合わせて自分の役割を適当に果たすものの、それほど強い帰属意識を感じていないわけでして、やはりほんものの人格的な交わりを避けようとするところからくるのです。

分裂的性格の生成の原因を幼児体験に求めるのは、フロイト学派の精神分析学の特色ですが、残念ながら、その点が精神分析学の説得力の無いところです。この問題は、フロイト学派の個体の生理に還元して精神の病理を捉えようとする生理学的唯物論の限界を示しているのです。そして究極的にはフロイト学派も身体主義的人間観の枠内に止まっているので原体験で説明せざるを得なかったのです。後に詳しく検討することにしましょう。

二、適応様式としてのシゾイド人間

シゾイド的性格の人物は、一貫した自我が希薄で、人格的な深い交わりを避けて、引き籠もりがちです。だから、社会に適応できずに、孤立したり、疎外されたりする傾向にありました。ところが目まぐるしく変動する現代社会に適応するには、このシゾイド的性格を現代人は共有せざるを得ないと小此木は指摘したのです。そしてシゾイド人間の心理の特徴を次の六つに整理しています。

第一は、人格的な深い関わりの回避です。シゾイド人間も内心は親密な人間関係を望んでいます。でも、その関係が破綻したり、別れなければならなくなる時の「対象喪失」の苦悩や悲哀を考えてしまって、愛情関係を持つことを恐れるのです。シゾイド人間は情感を激しく表すことを避けて、規格化された範囲に抑えます。武田鉄矢作詩『贈る言葉』にありましたね、「悲しみ堪えてほほえむよりも、涙枯れるまで、泣く方がいい」と、でも、素直に喜怒哀楽を表現してしまうと、感情の激しさに心が深く疵つく気がして怖いし、愛情関係も深くなってしまうからです。

第二は同調的引き籠もりです。分裂的性格の場合はひねくれて自分に閉じ籠もっているように見えます。それではトラブルのもとですし、人に心配をかけて余計に関わりを誘い、引き籠もることができません。適当に他人に同調し、自分の役割も一応果

たしておきます。でも積極的に会議をリードしたり、イニシアチブをとって事を行おうとはしないのです。そんなことをすれば、集団に深く帰属し、その責任を引き受ける面倒な事態に追い込まれるのでしょう。それが嫌なんです。そういう人は家庭でも妻子に同調して、自分をロボット化させています。シゾイド人間は自己主張がないから、トラブルになりません。人格同士が激しく火花を散らして衝突する事が敬遠されているので、愛憎が希薄ままでいられます。

第三は「のみこまれる不安」つまり自分を失う不安です。シゾイド人間は関わりに入る前に、関わりを持ってしまったら、自分の自由を奪われたり、自分を失ったりするのが恐ろしいという感覚を持っているそうです。「のみこまれる不安」から恋愛に尻込みしたり、上司との付き合いを避けたりする傾向などが見られます。

第四は全能感と貪欲さです。対象から「のみこまれる不安」は、同時に自分が対象を「のみこんでしまう不安」でもあるのです。自分に対象を完全に支配し、自分のものにしてしまわないと気が済まない自己中心的な全能感があるんです。そうしなければ、対象からやられてしまうんじゃないかと被害妄想的に恐れているんです。だからまともに関わり合ったり、付き合ったらヤバイので、適当に表面的に同調しておこうというわけです。

第五は、一時的、部分的関わりしか持たないということです。人格的に付き合うのではなくて、ただ手段としてだけ、道具としてだけ付き合うのです。対象は自分にとって手段でしかなく、主体はあくまで自分だと捉えていますから、全能感は失わずに済むのです。それにスミスは、近代市民社会は市場経済ですから、互いに私利を追求し合えば、後は神の見えざる手が働いて調和と繁栄がもたらされると説きました。しかしそれでは人間同士の人格的な交わりによる充実感や幸福は得られません。

カントは「人格を単に手段としてだけでなく、同時に目的として取り扱え。」と互いの人格を尊重し合い、対象の人格の陶治や幸福のために生きるよう諭しています。つまり「目的の王国」に生きるよう説いています。シゾイド人間はカントのような面倒な課題は無視します。だけど互いに人格を認めあってこそ、自己を人格として確認できるのですから、シゾイド人間は人格としての存在感に乏しいのです。

第六は「山アラシ・ジレンマ」です。ショーペンハウエルの寓話にこんなお話があります。「ある寒い冬の日、山アラシたちが寄り添ってお互いを暖め合おうとしたが、お互いの棘で刺してしまうので、また離れ離れになった。この近づきと隔たりを繰り返すうちに、やがて山アラシたちは、適度に暖め、適度に棘の痛みを我慢できる適当な距離を見つけ出した。」

 これはシゾイド人間は、自己中心的に貪欲に対象を愛そうとするあまり、相手をスポイルしてしまう。それで適当な距離をおいて愛し合うという話なのです。家族関係でも恋愛関係でも友人関係でも「拒絶し、敵対する感情のしこりを含む」とフロイトも説いているそうです。愛すればこそ、対象が自分の愛に応えてくれなければ、対象に執着する気持ちが憎しみに転化すると言うことでしょう。

好例として小此木は、映画『マンハッタン』を取り上げます。その主人公は四十代の作家で、離婚した妻に子供の養育を任せ、時々買い物やボール投げで子供に関わるだけです。自分は女子高校生やキャリア・ウーマン等と恋愛をしながら自由に暮らしています。映画の登場人物はみんな山アラシ・ジレンマに疵つき、疲れ果てた挙げ句、愛憎や嫉妬心が希薄になっていくのです。

現代人は打算だけで関係し、人格的に深く関わることを避けようとします。しかも自己中心的でわがままに関わろうとしますから、近づいたり、離れたりしながら適当な距離をとろうとするのです。
〔『シゾイド人間ー内なる母子関係をさぐるー』1981年 朝日出版社〕 

 

第四節、償い型の罪の意識

 

目次

一、両親に対する愛憎のアンビバレンツ
二、グッド・マザーとバッド・マザー
三、阿闍世コンプレックス
四、母性原理

一、両親に対する愛憎のアンビバレンツ

フロイトは、親子間の愛憎関係をエイディプス・コンプレックスとして展開しました。一体的な母子関係に対して、超越的な第三者として現れる父親は、母子関係の一体性を破壊し、家父長的な家族秩序に子を編入する権力的存在です。この父親との関係で発生するのがエイディプス・コンプレックスでした。父親を排除して、母親を独占しようとする衝動です。

❏でも父親には逆らえないことを納得して、母親からも一定の距離を保てるようになり、子供社会に入っていけるようになるわけです。また父親の権威を受け入れる過程で、母親のように父親に愛されたいという思いが生じて、これが潜在意識に残っていると、成長してからホモ・セクシュアルに成り易いと言われます。

フロイトは、父親との関係では愛と憎しみが交錯しているアンビバレント(両義的な)関係を見出しましたが、母親との関係では母子一体性ばかり強調されていました。フロイト学派の中には、アンビバレントな相剋を父親に対してだけではなく、母親に対しても懐くものだという説がメラニー・クラインや古沢平作などから提起されています。小此木はこの動きに重要な意義を認めているのです。

二、グッド・マザーとバッド・マザー

「メラニー・クライン」の画像検索結果

メラニー・クライン

メラニー・クライン(1882~1960)は、赤ん坊は「分裂ポジション」にあるといいます。同じ母親をある時はグッド・マザー、またある時はバッド・マザーというように全くの別人だと思い込んでいるのです。おむつを取り替えてくれたり、お乳を飲ませてくれたり、だっこしてくれる時には、とっても素敵なグッド・マザーなんですが、またある時は、なかなか思い通りにしてくれないで自分に地獄のような責め苦を与えるバッド・マザーなのです。赤ん坊にとっては、とても両者は同一人物だとは思えません。

赤ん坊はにこにこしたり、泣き叫んだりしているだけで、何もできないか弱い存在に見えますね。それは大人の目から見るからそう見えるのです。赤ん坊にすれば泣いたり、笑ったり、叫んだりすることによって、自分の現実に働き掛け、現実を変革して、欲望を充足しているつもりなのです。赤ん坊は何もできないのではなく、自分自身の欲望を何でも叶えることができているのです。つまり「全能幻想」を持っているんです。

地獄の責め苦を与える鬼のようなバッド・マザーに対しては、赤ん坊は泣き叫んだり、手足をばたばたさせたりしてあらゆる攻撃を試みています。その戦果でバッド・マザーは滅ぼされ、グッド・マザーが出現するのです。 ところがグッド・マザーとバッド・マザーが同一人格であることが分かってきますと、バッド・マザーを攻撃して破壊してしまったら、グッド・マザーも失ってしまったと思い込みます。それで後悔から憂鬱になってしまいます。これが「抑鬱ポジション」です。そこで何とか償ってグッド・マザーを修復しようとします。ここから償い型の罪の意識が発生するというわけです。

ところで分裂ポジション・抑鬱ポジションといっても、赤ん坊の場合は主観・客観が未分化な生理状態に過ぎない筈です。それをすぐさま罪の意識にまで結び付けるのは飛躍があります。母親といっても赤ちゃんの意識ですから、生理的感覚に過ぎないと捉えるべきでしょう。まだ独立した人格的存在として自他の分離が自覚できていないのですから、他者に対する罪の意識も生じないと考えられます。メラニー・クラインと同じ論法でいけば、授乳・保育期の長い他の高等動物でも償い型の罪の意識がみられることになってしまうからです。

この点に関してはむしろ超越的な第三者としての父親との三角関係を介して原罪の成立を説いた、エディプス・コンプレックスの方が説得力があるようです。実際、甘えん坊は全能感が強いせいか、罪の意識がなかなか育ちません。「ゴメンナサイ」の六音を言わせるのには、ほとほと手を焼く始末です。赤ん坊の時期に罪の意識の原型ができるとは私には思われません。

ところでバッド・マザー体験が強すぎるのは、やはり分裂症の原因になるでしょうが、グッド・マザー体験が強すぎるのも考えものです。だってグッド・マザーがバッド・マザーと同一だということが分かって始めて、マザーとの分離の端緒が掴めるのに、バッド・マザー体験がなければ、いつまでたっても人格の形成が進まない恐れがあります。ドナルド・ウィニコット(1896~1971)はバッドとグッドを兼ね備えた普通の母親を「グッドイナフ・マザー」と呼んでいます。これが一番かもしれませんね。

三、阿闍世コンプレックス

古沢平作は、フロイトのエディプス・コンプレックスに倣って「阿闍世コンプレックス」を考えつきました。フロイトは父親に対する愛憎のアンビバレントな関係を捉えたのですが、古沢は対象を母親に移して愛憎のアンビバレントな関係を捉えたのです。

仏典の「阿闍世王物語」も父親に対する愛憎劇が中心ですが、改作によって古沢版「阿闍世王物語」創作し、それに基づいて「阿闍世コンプレックス」理論を組み立てました。その点がエディプス・コンプレックスに比べて説得力の欠けるところです。ギリシア悲劇ソフォクレス作『オイディプス王』は、世界の悲劇の中で最も有名な、最大の文学作品として定評があります。その悲劇の象徴的意義を見事に解読したので、フロイトの精神分析は強い説得力を持ったのです。

古沢の「阿闍世王物語」の粗筋は次の通りです。韋堤希夫人は、容姿が衰え、夫、頻婆娑羅王の愛が薄らいでゆく不安に苛まれます。夫の寵愛を確保するための手段として子を欲しがったのです。(仏典では女子しか生まれなかったので、マカダ国の為に太子を欲しがった。)占い師の予言によりますと、森に住む仙人が三年後に亡くなり、生まれ変わって夫人の胎内に宿ると言います。三年が待てない夫人は浅はかにもその仙人を殺してしまったのです。仙人は殺される際に、「王子に生まれたその時は、父王を殺し、母を害しましょうぞ」と予言したのです。こうして自分の胎内に、自分が殺した男を宿してしまうことになったのです。

夫人はその未生怨(生まれる前からの怨み)が恐ろしくなって、堕そうとしますが、失敗して産んでしまいます。(仏典では堕胎は父王から禁じられ、生まれてから塔から投げ捨てて殺そうとするが、奇跡的に指が折れただけで助かる。それで「折指太子」とも呼ばれた。)その子の名が、阿闍世です。大きくなった阿闍世はこの経緯を世尊に対抗したダイバダッタから知らされます。

母が母である前に女であり、女としての欲望のために前世の自分を殺し、自分を産んだことを激しく怒ります。それで母を殺そうとしますが、「権力争いで父王を害したという伝えはあるが、母親を害した伝えは聞いたことがない。」と臣下に諭され、罪の意識から流注(体中に腫れ物ができ膿み爛れる病気)に罹って倒れてしまいました。(仏典では大臣に諭されて獄中の父王を助けていた母親を害さず、幽閉する。後になって自分の罪に目覚めてから流注に罹る。)

母親は阿闍世を許して献身的に看病して、彼の命を救います。こうしてお互いの許し合いによって、母子関係が回復するというお話です。(仏典では世尊の前で懺悔して流注が治癒される。)この話で、古沢は罰せられることの恐怖心から発する罪の意識に対して、許されることによって生じる罪の意識=懺悔心を対置したのです。

四、母性原理

❏子にとって母は、元々一体的な存在であり、母でしかありません。ですから母が母である前に女であり、女としての欲望に生きる存在でもあったことは認め難いのです。あまつさえ、母であることが女であるための手段であったとすれば、子としての自分もそのための道具であったことになります。これを知って、母子一体感に基づく全能感が崩れ、自尊心がいたく疵つく事になるというわけです。そしてこのような母の欺瞞性に対する怒りが母子分離を決定的にするということです。

❏女であり母であることは、どちらも自然的なことであり、エロス的なことです。たとえ母であることを女であることが裏切っていたとしても、母は母としての本能で子に接するかぎり、子は母の愛によって充たされ、アンビバレントな存在としての母=女をも受容することになると言います。こうして母=女を一個の自分から独立した人格として承認することによって、息子は愛の対象を母から別の女に転移させることができますし、娘は自分自身の中の女としてのエロスに目覚めることができるようになるのです。

❏罰に対する恐れから来る罪の意識は父性原理によります。律法の蹂躪に対する裁きの神は父なる神です。これに対してこの許され型の罪の意識=懺悔心は母性原理に基づくのです。道徳的な罪の意識としては、罰に対する恐怖心から来るのは、あくまでも自己中心的な功利的な意識ですから、本当の罪の意識とはいえません。相手に悪いことをして、相手を苦しめて、損害を与えたのに、相手がその罪を問わず、許してくれたとします。そうしますと自分は相手に悪いことをしたのに許してくれた。何と優しい人だろう。それに比べて自分は何と罪深い人間なのかという反省の気持ちが起こります。これが本当の罪の意識です。

❏日本人の社会心理を考えますと、どうもこの母性原理の比重が大きいようだと言われています。母への全面的な依存はかえって思っただけでなんでもできるという全能感を育てますから、これが「甘え」となります。(土居健郎『甘えの構造』参照)この問題は、現代社会においてナルシズムがどうして蔓延したのかを考える際、重要です。

❏メラニー・クラインは罪の意識を乳児期にまで遡及させる点で問題が残ります。これと比較して、「阿闍世コンプレックス」の場合は、「未生怨」に根を持つとは言いましても、それより青年期の自立を中心に展開されている点で、より説得力が感じられます。

〔『日本人の阿闍世コンプレックス』1982年、中公文庫〕

第五節、自己愛幻想

目次

一、楊朱と墨翟
二、同一視
三、同一視は倒錯か?
四、自己愛幻想

一、楊朱と墨翟 

諸子百家中、楊朱と墨翟は利己主義と利他主義の典型として厳しく対決しました。両者の論争を楊墨論争と言い、百家争鳴の代表例とされています。己のため以外には髪の毛一本もうごかさないとした楊朱は、利他的な行為も動機はそれによって究極的には自分を利するところにあると見抜いていたのです。彼は利己的な本音を見据えることで、イデオロギー的な建前に翻弄されることなく、合理的に自然体で行動できる事を説いたのでした。

❏墨翟は、自分の親と他人の親を分け隔てすることなく愛しなさいと、「兼愛」を説きました。彼は戦争の根本的な原因を、自分の利益を他人の利益よりも優先することに由来すると捉えました。

❏人はよく自分の為ではなく、家族の為、会社の為、集団の為、地域の為、民族の為、国家の為等と自己正当化をします。いかにも自己犠牲的に普遍性の為に行動しているように弁解して、利害争いや戦争をするのです。墨翟に言わせれば、「自分の為」も「自分の~の為」も自分たちの利益の為に奪い合ったり、殺し合ったりする点では同じことです。

❏だから自分の為と同じように、他人の為につくすべきであり、自分の親と同じように他人の親にもつくすべきなのです。ひいては自分の国と同じように他の国にもつくすべきなのです。そうしてはじめて争いが原理的に無くなります。

❏ところで儒家は、血縁の濃淡で愛の濃淡を差別することに人倫の基本を置きました。墨家は儒家のこの態度を別愛と呼んで、全ての争いの根本原因だと非難したのです。儒家すれば自分の親と他人の親を差別しないのは、親の恩を軽んじるとんでもない親不孝であり、畜生にも劣ると罵りました。
中国では家父長的、宗族的な家族制度が強力でしたので、楊朱の徹底した個人主義や墨家の兼愛(博愛)は支配的な思想としては根づきませんでした。儒家は中国の家族制度にフィットしていましたから、以後二千年間の支配的思想になったのです。

 二、同一視

❏楊墨論争や儒墨論争は、自己を何と同一視するかの違いから来る論争なのです。人間は自己を何かと同一視して、自己を規定し、自己のアイデンティティを確立しているのです。楊朱は自己を自己の身体と同一視していましたから、自分の為以外は、髪の毛一本動かさない、ということになるのです。

❏家系や門閥が重要な役割を果たした中国社会では、家あっての個人と捉えていましたから、まず家系の存続、家名の向上が優先しました。それで自己を家父長家族と同一視する思想が『孝経』としてまとめられ、儒教の中核に据えられているのです。これに対して、人類全体と自己を同一視して、一人の飢え死にする人も、凍え死にする人も出さないようにしようとしたのが墨家なのです。

❏このようにどんな正反対の思想でも、個別の身体に限定された自己であるか、あるいは身体の限界を越えて拡大された自己の違いはあるにしても、自己に対する愛=自己愛の視点から理解可能なのです。

❏身体の限界を越えて拡大された自己は人間関係、社会関係として意識されます。仲間や家族、会社、組合、コミュニティ、民族、国家はそのような人間関係、社会関係です。そのような集団を自己と感じるアイデンティティの意識が帰属意識です。この意識があってはじめて、同じ集団に属する人と愛憎の対象として関係し合うことができるのです。

❏個人としての自己だけが自己ではないのです。集団として自己も自己には違いないのです。もちろん資本主義社会は個人の私的利益の追求をできるだけ自由に任せています。個人の幸福追求権は基本的人権でも最も重要な権利です。しかし個人の幸福も、全く個人的なものではありません。

❏父親が高収入をもたらしてくれるから家族は幸福とは限りません。過酷な長時間労働で父親が苦しんでいるのに、妻子が我関せずで幸福でいれるわけがないのです。子供が学校で苛められて苦しんでいるのに、親は仕事が順調なので幸福というわけにもいかないでしょう。自分がアイデンティティを感じている集団の構成員の幸福は、他の構成員にも幸福と感じられますし、不幸は自分にも不幸と感じられます。それは相互に同一視し合う感情が共有されているからです。

  三、同一視は倒錯か? 

❏人間は本当は非常に自尊心の強い存在です。自分自身を讃美し、自慢したいのですが現実には自分が思っている程自分のことは世間では評価されません。自画自賛しても冷笑されるのがおちです。そこで自分がアイデンティティを見出し愛情を感じている対象のことを、大変素晴らしい人物であるかのように褒めちぎります。

❏親馬鹿、子馬鹿は当然ですが、余り関係のないと思われる人のことまで褒めちぎる人もいます。また世間で有名になったり、偉大な業績を挙げた人がいると、その人物と自分とのつながりを非常に浅いものであっても吹聴したくなるものです。それはその対象と自分を心のどこかで同一視していて、その対象が褒められることが自己愛を充足させているからなのです。

❏アイドル歌手とミーハー、スポーツ選手とファン等の関係は、マス・メディアを介して形成されている大衆社会の構成員としての同一性に基づいています。スターは大衆の夢を代表していて、大衆に代わって舞台やグラウンドで輝いているもう一人の自分なのです。特にブラウン管を通して家庭の中で日常的に接することのできるスターたちが繰り広げる世界は、もう一人の自分の世界として非常に強い好奇心の対象となります。ある場合には、ファンにとっては自分自身の人生よりも、贔屓球団の優勝のほうが重要な意義を持つ場合があります。

❏阪神タイガースが優勝した時、親が死んでも、妻子に逃げられても涙一つ流さなかった男が、一升瓶を抱きながら一晩中泣き明かした位ですから。また尾崎豊の死は熱狂的なファンにとっては自分自身の死と変わらない意味を持ったのです。

❏これらの同一視には、対象と自己の混同、対象への自己の感情移入が見られます。自分でない者を自分自身と思い込む倒錯がなされています。この倒錯論を一面的に強調すれば、すべては幻想に過ぎないという岸田秀の唯幻論になります。

❏対象は自己を自己の身体に限定して捉える限りで、自己ではありませんが、集団的な自己への帰属によって、より大きな自己を認めますと、対象に対する共感に基づく同一視は必ずしも倒錯とは限りません。しかし集団や組織に対する被害者意識の強い人は、あくまでも身体的な個体の原理に固執して、地域社会や会社、組合、政党、国家、人類等に埋没してはならないと叫ぶでしょう。

❏でも個体の原理もそれが帰属する集団の中で、集団の中での役割を果たすことによってのみ貫徹できる仕組みになっています。やはり個体の原理を貫徹しながらも、その為にも、身体的な自己を脱皮して、より大きな集団的自己の立場に立つべきなのです。

四、自己愛幻想

画像はカラバッジョ作「ナルシス」

❏対象に対する愛も自己との同一視によってのみ成立しているとしますと、どんな対象に対する愛もすべて自己愛に還元できることになります。愛着した対象は誰しも失いたくありません。そしてそれは良いものであって欲しいと思います。そこで対象喪失の可能性を否定したり、対象を事実以上に良いものと思い込む心理が働きます。
自己愛幻想は元々赤ん坊の時に何でもできるという全能幻想を培われていたので、それが成長しても自己と同一視された対象愛を含む自己愛幻想として現れるのです。自己愛幻想の中で最も強いのが、自分だけは死なないという不死幻想です。フロイトは誰でもこの幻想を隠し持っていると言っています。肉体的な死は免れがたいと観念しても、精神を実体化して、霊魂不滅思想を持つのも、元を糾せば自己愛幻想の産物なのです。

❏人は幽霊を怖がっているようですが、その実、大変好奇心を寄せています。何故なら、幽霊は死んでいる筈なのに、怨み言を言うという生きた活動をして不死願望に応えてくれるからなのです。
フロイトは、無機物に還ろうとする死の本能「タナトス」を説き、自己の有限性を精一杯生きることで死を受容しようとしました。小此木は、自己を喪うことを含めた対象喪失を悲哀や恐怖として体験し、受容できる自然人としての自我を養うよう諭します。要するに諦観の勧めです。唯物論としては当然ですが、やはり一番厳しいですね。

「『自己愛人間・現代ナルシシズム論・」の画像検索結果❏小此木は諦観による自己愛幻想の克服を説く一方で、自己愛幻想の積極的意義を強調しています。人間は実存的にはいつも死と表裏の関係にあります。つまり限界状況を生きているのです。ニィチェは人間を「断崖に懸けられた一条の綱」と呼び、「進むに危うく、退くに危うく、佇立するにまた危うい。」と表現しています。

❏このように実存主義は、死の自覚から生への覚醒を説きます。でもそんな緊張を四六時中保つことはできません。日常的には自己愛幻想に基づく自己の不死信仰で死を意識下に沈めているのです。でないと不安で日常生活を平穏に過ごすことは不可能です。とても心の健康は保てません。

❏地球環境破壊の危険を知ってはいても、そのことでいつも悩んだり、恐怖したり、破壊防止や環境改善のためにずっと運動しているわけにはいきません。普段はまさか今日明日に人間が住めなくなる事はなかろうし、多分自分の存命中には破滅的事態には到らないだろうと高を括っているのです。こんなおめでたい楽観的な神経のほうが精神医学的には正常だということになります。たしかにこの種のノーマルな自己愛幻想が、エコロジー運動を推進する場合の最大の障害かもしれませんね。

〔『自己愛人間・現代ナルシシズム論・』1981年、朝日出版社〕

 

 

第六節、意識の構造

 

目次

一、岸田秀の唯幻論
二、意識の再生産の構造
三、意識の私的所有
四、身体的自我の脱皮

一、岸田秀の唯幻論

「『ものぐさ精神分析』」の画像検索結果❏フロイト学派の精神分析学の問題点を考えるために、小此木から少し離れて、岸田秀(1933年生まれ)の唯幻論について触れておきましょう。

❏彼が『ものぐさ精神分析』などで言っていることは、人生には予め、価値や意味など無いということです。その点は、本来、猫と変わらないというのです。猫は別段、生きているということに価値や意味を求めません。その必要は全く無いからです。

❏それにひきかえ人間は、束の間の人生が何の意味や価値も持たないという事実に堪えられないのです。そこで個別にかあるいは共同してか、価値や意味を捏造して、それを支えに生きているのだそうです。岸田にすればこれは恣意的な必要から生じたものだから、事実に基づかない幻想に過ぎないというのです。

❏確かに、人も猫も自然存在としては同じです。価値や意味は、我々が勝手に作り上げたという意味では、幻想に過ぎないというのも分かります。でも人生がそんなに悲惨だというのならもっと絶望的に、深刻に語るべきです。いかにも自分だけが悟っていて、みんなは幻想に囚われていると主張するのは無神経です。もっとも岸田に言わせれば、そんな幻想を懐くから絶望するのだ。もともと人生に価値や意味など無いのだと考えれば、少しも深刻になることはないと言うでしょうが。

「『パンツをはいた猿』」の画像検索結果栗本慎一郎『パンツをはいた猿』もこの種の思い上がりに自己陶酔していて、反感を誘います。その上、人間自身や人間が作り上げた文化は蕩尽のための余剰にすぎないから、人類の滅亡は避けられない。核戦争阻止の運動などナンセンスだなどと主張するに到っては、背筋が寒くなります。

❏たしかに個人の人生は束の間で、はかないものです。自然科学的には無意味で無価値でしょう。死後の世界を空想するのも、実は全能幻想からきているのです。しかしその諸個人が生まれては死んで、それが積み重なって構成している人類社会には、人々が共同で作り上げた価値や意味が作用しており、現実的な根拠を持っています。

❏個人は自分を単なる身体的個人としてだけ捉えているわけではないのです。人類社会の一メンバーとして、その要素としても自分を位置づけています。その観点からは、人生の価値や意味は単なる幻想ではありません。核戦争の阻止がいかに困難であっても(『パンツをはいた猿』が出版されたのは一九八一年で、ソ連のアフガニスタン侵攻後で東西緊張が高まり、核軍拡競争が盛んな時期でした)、人類社会の一員として人類のサバイバル(存続)は至上価値ですから、あくまで追求せざるを得ないのではないでしょうか。

 

二、意識の再生産の構造

若いフロイト

❏精神分析は心を対象にする科学です。ところで医学は人間を身体に限定して捉え、身体的活動を正常に保つことのみを目的としてきました。フロイトの精神分析も、心の活動を身体の活動として位置づけようとしていました。だから脳の表層近くに意識、その下層に無意識の存在を仮定したのです。

❏たしかに脳の中に意識の中枢があるにしても、意識自体があるわけではありません。言語、意識は実は身体に限定されない社会的なつながり全体にも根拠を持つのです。社会的な諸連関が各身体や諸事物を動かして、意識を再生産している面を忘れてはいけません。その面から見ますと、各個体的身体の思惟は社会的諸連関によって産出された言語活動(口に出さない場合は純粋な思考です。)に他なりません。つまり身体は社会的な諸連関が意識活動する際のメディア(媒体)なのです。

❏それに無意識は、社会諸連関が言語的意識活動を産出する際に、その際にメディアとして使われる身体が示す抵抗や受容の仕方の特徴を、無意識という何かであるかのように実体化したものに他ならないのです。身体がどんな抵抗や受容の特徴を示すのかは、過去の意識体験の蓄積の内容によって決まります。古い記憶は古い皮膜に刷り込まれているでしょうから、新しい皮膜の下層に無意識があるとされるのです。

❏無意識は過去の記憶それ自体でもありません。過去の記憶が蘇れば、それは立派な意識です。無意識ではありません。むしろ過去の記憶が蘇るのを防ぐような、社会的に形成された身体的メカニズムです。それに無意識自体は、無意識的行動としてしか現れませんから、どの部位に有るというような性格の存在ではないのです。

❏こうした社会が、社会的な諸事物や諸個人を媒体にして社会的意識を再生産するという面を見落としますと、個体的、個人的な意識の心理学しか残りません。いかにフロイト派が家族関係や、社会関係の影響を重視する議論を展開しても、それはあくまで個体の意識形成の外的条件に過ぎません。そこで個体の存在から演繹できない普遍的な社会的意識である価値や意味は、すべて自己愛幻想だということになってしまいます。この点は、フロイト派の人々に熟考願いたい問題点だと思います。

三、意識の私的所有

❏「私」は「私」の大脳の作用としての意識を、主体的な「私」の活動としてのみ解釈しがちですが、それは後から意識内容を反省して、「私」がそう意識したとするからです。意識内容自体には「私」は存在しないのです。意識現象を実体としての「私」の活動や、脳生理作用として全て説明してしまうことはできないのです。

❏ところが「私」は、「私」を「魂」や「心」として実体化して、意識内容を全て私的に所有してしまいます。こうして成立したのが心身二元論です。心身二元論では意識は事物や身体の活動ではなく、ましてや社会的諸連関の活動でもありません。心自体が、自己自身を材料にして意識を産出するとされます。これは、心を実体化して捉えるからこそ成り立つ議論なのです。

❏とはいえ「私」が「心」や「魂」として実体化されるのは大変説得力があります。何故でしょう?それは自我が意識的諸連関の統合であり、主体化であるという事実に根ざしているからです。特にユング派の心理学では、精神界と物質界の二元論と、それに基づく精神の不滅を説く傾向が強いようです。

四、身体的自我の脱皮

❏正常な自己愛幻想を持ち、自分に自信を持って生きることが誰しも必要でしょう。その為にも、幼い頃にたっぷりスキンシップしてやって、幼児的な全能感を培っておく必要があるのです。またエロス的な相互愛で自己愛を対象愛に昇華させることが大切なのです。自己愛から対象愛への転移をもっぱら倒錯的な同一視による自己愛の充足という面だけで捉えますと、対象愛を対象愛として説明できません。対象と身体的自己を包括するより大なる自己の中で、共同の自己を共に構築する上での共感として対象愛を捉え返すべきです。

❏家族、組織、社会、人間的自然の各レベルで、我々はそれぞれの論理で思考し、行動し、感覚します。そこには身体的自己からの脱皮があるのです。逆にみれば、家族、組織、社会、人間的自然が、身体の生理過程を媒介に意識しているとも言えるのです。このようなより大なる自己の意識は、様々な社会的レベルの意識として成立します。この意識は諸個人の個体の生理をもメディアとして現れますが、様々な文化的諸事物をもメディアとするのです。また集団的意識でもありますので、各個人の個体的な生理的意識過程には還元できません。

❏ところで、身体的自己が社会的意識をわがものとして、社会的な自己にまで成長するためには、自己愛を対象愛への転移させ、直接的な生理的欲求を社会的欲求への昇華させることが必要です。当然そこには相剋があり、克己が求められます。身体的自己から社会的自己への脱皮的成長という視点が重要なのです。残念ながらフロイト派には、この脱皮的成長という観点が明確じゃないのです。そこで社会的心理をも身体的自己の心理として説明しようとするのです。だからどうしても幼児体験への還元による説明になってしまうのです。

❏もちろん身体的自己を引き摺っている以上、幼児体験に正当な配慮がはらわれるべきですが、「身体的自己からの脱皮」という視点を忘れて、「原体験主義」になってしまえば、かえって問題の核心からずれてしまって、治療の妨げになるのではと心配されます。

❏父として、夫として、教師として、労働者として、私人として、公人として、日本人として、人類等々としてそれぞれの自己を私達は生きています。それぞれの自己の背後に控えている社会連関の様相は、当然異なっているのです。それぞれの社会連関がそれぞれの「~としての意識」を産出している面を見落としてはなりません。

❏それぞれの社会連関はそれぞれに特有の対象との関係として現れます。それぞれの対象との関係を生きる事が自己の内容なのです。ですから自己を大切にする事は対象との関係を大切にする事に他ならないのです。言い換えれば、人間は自己と対象を同一視し、自己愛を対象愛に転化して、対象愛を支えにして生活しているのです。これなしには自己もないのです。つまり様々な対象的な人間関係(この中に社会的な諸事物との関係を含めるべきだというのが、私の主張です。)の網の目の統合として自己が成立していると言えます。

❏マルクスは『フォイエルバッハ・テーゼ』で「人間とは、本質的には、現実的な社会的諸関係のアンサンブル(総和=重ね着)である。」としました。マルクスは「現実的諸個人」という立場に固執して、社会関係を主体として捉え返すことを倒錯だとする限界を持っていましたが、「身体的自己」から「社会的自己」への脱皮という視点からは、このテーゼは再評価されるべきだと思われます。

❏「第六節、意識の構造」では小此木を離れて、私の問題意識を述べておきましたが、小此木およびフロイト派全体を客観的に理解する役に立てば幸いです。

 

第七節、対象喪失


一、悲哀の仕事
二、悲哀排除症状群

一、悲哀の仕事

❏自我が対象関係の統合だとしますと、対象喪失は自我の成立根拠の喪失ですから、自我破綻に繋がりかねない深刻な危機です。自我の網の目が破れたようなものですから、喪失した対象関係が無くても生きていけるように立ち直らなくてはなりません。つまり、その対象との関係を断念する「悲哀の仕事」をやり遂げなければならないのです。

❏儒家は両親の死に当たり「服喪三年」と規定しました。この間、ずっと家に閉じ籠もり、美食や音楽を断ち、子供を造ってはならないとされていました。その間にできた子供は「不義の子」と呼ばれ、相続権を奪われていたのです。これではあまりに社会生活に支障をきたしましたので、墨家はこのしきたりを強く糾弾しました。そして対案として墨家は「服喪三月」を打ち出したのです。今日からすればそれでも永すぎます。儒家にすれば、三年の喪を立派にやり遂げてこそ、先祖に繋がる自然人としての自我を形成することができるいうことでしょう。

❏フロイトは、父の死に対する悲哀の仕事を通して、自分自身の幼児体験を思い起こし、それと患者だったハンス坊やの父・母・子の相剋を重ね合わせ、「エディプス・コンプレックス」を明らかにしたと言われています。フロイトのように悲哀の仕事によって、悲しみを乗り越えてますます自我が強固になり、生産的になれれば良いのです。ところであまりに悲哀が強すぎますと、生きる支えを失って、鬱病に陥ってしまいがちです。あるいは悲哀の余りに生じた心の空白によって、癌などの身体の病気を患ってしまい、それが原因で死んでいる人も多いようです。

二、悲哀排除症状群

❏ところで自己愛幻想が強すぎますと、対象喪失は自己喪失の一部を成しているものですので、自己喪失に繋がる対象喪失を事実として承認することに、強い抵抗を示すことになりがちです。肉親や配偶者の死後、何年経ってもまだ死が信じきれず、生きているように思われるものです。

❏私も未だに、死んで二十年や三十年以上経っている祖母や祖父が、生きている夢を良く見ます。目覚めているときは理性が優勢ですから、祖父母の死は動かしがたい事実なのですが、理性の働きが弱まっている夢の中では、健在です。夢では死んだいうのは間違いで、息を吹き返したんだと無理に理由付けしているんです。

❏肉親や大切な人の死を心の何処かで否定している以上、対象喪失を承認することに他ならない悲哀の仕事をやり遂げるのを回避しようとするのは、当然です。多忙を理由に、悲哀に耽るのを避けたり、強がって陽気に振る舞ったりして、悲哀の感情の昂まりを抑えてしまうのです。「涙枯れるまで泣く」のを拒んでいるのですね。

❏心の中に感情を閉じ込めておくのは体に触るんですね。「泣いて、泣いて、泣き疲れて、眠るまで泣いて」という歌の文句がありますが、喜怒哀楽を体一杯に表現することで、体は納得するんでしょう。たとえどんなに深い悲しみであっても堪えられるようになっているものらしいのです。

❏悲しいのに泣かない、楽しいのに喜ばない、腹が立つのに怒鳴らない、愛しいのに抱き締めない。体で心を表さないといけないんです。無意識的な形で突然体に心身症が出てくるんです。特に対象喪失によって本当は極度に哀しみにうちひしがれているのに、無理に抑えていると、年老いてから子育てが終わった頃になって突然原因不明の鬱病に陥ったりするものなのです。

〔『対象喪失ー悲しむということー』1979年、中公新書〕

 

第八節、家庭のない家族の時代

「家庭のない家族の時代」の画像検索結果目次
一、ホテル家族
二、劇場家族
三、サナトリウム家族
四、要塞家族
五、四種類の家族の共通性
六、家族を支える論理
七、家族の崩壊
八、ネットワーク家族の時代
九、家族から共同体へ

一、ホテル家族

❏家庭ではシゾイド人間たちは山アラシ・ジレンマから、互いに干渉し合わない関係ができています。無理に親密になろうとしたり、深い絆を期待しすぎますと、互いに干渉し合って、疵つけ合いもひどくなってしまいます。互いに無関心で引き籠もり合っていた方が円満なのです。家庭はそれぞれにとって休養の場、憩いの場なのです。家庭に帰ってまでいろいろ意見されたり、干渉されたのでは心が休まる場所がないのです。みんな適当な時間にでかけ、それぞれの都合の良い時刻に食事を取ります。それぞれにとって居心地がよければ良い家族だということになります。このような家族をホテル家族と言うそうです。休養と憩いの場として家庭が主に機能しているからでしょう。

二、劇場家族

❏山アラシ・ジレンマでホテル家族になってしまったのですが、それに到る前には、リヒターの分類によりますと、劇場家族、サナトリウム家族、要塞家族などの形があったということです。これらの形の違いは家族の連帯感の作り方の違いからくるということです。

❏まず家族のみんながそれぞれの役柄を精一杯演じて、素晴らしい理想の家族ドラマを演じようとする劇場家族が挙げられます。良き夫、良き妻、良き父、良き母、良き息子、良き娘の演技を競い合い、互いを褒め合ってそれぞれ自分の演技に陶酔して幸福を実感するのです。一見、理想の家族のようですが、それはみんながお互いの期待に応えて、「良き~」を立派に演じ、自分に相応しい家族だと認め合えなければ困ります。みんな現代人は自己愛人間なのですから「私の夫」や「私の妻」「私の息子」「私の娘」は、私自身と同じように素晴らしい存在でなければならない筈です。でも現実問題として仕事に失敗すれば、「良き夫」や「良き父」を続けることが難しくなります。息子も両親から褒められたいので、受験勉強やクラブ活動などで頑張るのですが、期待されることによるプレッシャーもあって、良い結果を出せない場合が多いのです。

❏期待通りの「良き息子」でなくなれば、本当は本人が一番疵ついている筈なのに、両親は息子自身のことよりも自分たちの自己愛が疵つけられた気がして、息子を非難してしまいます。そうしますと息子の方は、両親は息子への愛情から勉強させていたのではなく、両親自身の自己愛の満足の為に、勉強を押しつけていたんだと、反撥します。実は「良き父」「良き母」は演技に過ぎなかったんだと受け止めるのです。こうして「良き~」の演技を続けられない状況になると、自己愛が剥き出しになって、家族に対する幻想が脆くも破綻してしまい、家庭崩壊の途を辿りやすいのです。

三、サナトリウム家族 

❏家族を危険からの避難所、病気の治療所のように捉えている人たちがいます。彼らの家族を「サナトリウム家族」と呼びます。いつも家族の誰かが病気になったり、不幸な目にあったりするのではないかと心配で堪らないんです。一緒に心配し合うということで家族の団結やまとまりの基礎ができるんです。ただ身の安全、生活の保障だけを考えて、傷つかずに済ますことばかり気にして暮らしているのです。子供にはいつも交通事故の注意、先生に叱られないようにする注意、苛められないようにする注意ばかりするものだから、子供は目立たないような消極的な人間になろうとします。

❏ちょっと咳が出たり発熱しただけで赤痢や肺炎じゃないかと大騒ぎするのです。結婚相手を選ぶ時でも、できるだけ安全な結婚をさせようとするんです。素性の分かった地味で堅実な人と結婚しようとします。もちろん就職に当たっても、仕事の魅力では選びません。いったん就職したら一生安心というような仕事を選ぼうとするのです。劇場家族が挫折して、子供が登校拒否を起こしたり、だれかに精神的な障害が生じたりして家族全体が深く精神的に疵ついた体験があって、サナトリウム家族になったのかもしれませんね。

四、要塞家族

❏被害妄想的に世間や周囲の人達を敵視し、その分だけ家庭内でお互いを美化してかばい合う家族を「要塞家族」と呼びます。彼らは常に正しいのは自分達だと思っていますから、家族外の人達がいかに下劣で駄目な人間であるかを報告し合います。家族以外の人達とトラブルが生じた場合は、自分たちは何と言われようが正しくて、悪いのは相手の方に決まっているのです。

❏世間の連中がいかに悪辣かは常々確認していることですから、たとえこちらに非があるような状況証拠が揃っていると指摘されても、それは悪巧みに陥れられた結果に過ぎないと開き直ります。攻撃に対して身構えることによって家族の連帯が維持されているのですから、自分たち家族に問題があると認めてしまうと、家族としてのまとまりや団結が失われてしまうと思うので、それはできないのです。

❏息子が学校で問題行動を起こして呼び出された親が、きちんと指導できない教師の責任や無能力を棚にあげて、その被害者である内の息子を攻撃ばかりしていると反撥することがよくあります。いじめっ子の親は、いじめられるのはいじめられるだけの問題をその子が持っているからだと開き直る事が多いのです。

❏また社会的に孤立している人の家庭は、この孤立に身構えて要塞家族を形成することがあります。「学校でいじめられる子供」「職場で同僚や上司と争って不適応に陥る父親」「PTAで仲間外れになる母親」などの家族は要塞家族になり易いのです。

❏やはり自己愛人間は全能幻想が強くて、自分の思い通りにならないことに対して強い欲求不満がたまり、他人に対する協調性が欠けてきますから、何かと衝突を起こして、世間から孤立していきます。要塞家族が増えるのも当然です。

五、四種類の家族の共通性

❏小此木は、ホテル家族、劇場家族、サナトリウム家族、要塞家族の共通性を次の四つにまとめています。

「第一に、誰もが自分の家庭をとてもよい家庭だと思っている。この思い込みによって家庭に安心して頼っている。
第二に、こうした家庭のあり方によって、お互いの争いや傷つけ合いが起こらないように、うまく処理されている。(中略)
第三に、美化した家庭像をもったことによって、自分の家庭の欠点や見にくさは、見えなくなる。その結果、家庭への思い込みを維持することができる。
第四に、それぞれの家族によって家庭はなくてはならないものになっている。」

自己愛幻想は、自分自身を美化する傾向です。それは自分にとって一番大切な自分の家族を美化する形で現れます。それが最も積極的に現れるのは劇場家族ですが、お互いを非難し合うことだけはどの家族でも避けようとします。シゾイド人間は山アラシ・ジレンマを避け、自分の幻想に閉じ籠もろうとするのです。お互い醜いところ、悪いところは見ないようにして、良いところだけ見て、褒め合ったり、慰め合ったり、励まし合ったりするのです。

六、家族を支える論理

❏精神分析学は家族関係が与える精神への影響を論じることはできても、家族関係が成り立つ論理それ自体は論じることは難しいようです。様々な家族の形態が考えられますが、近代家族は、近代市民社会の成立による生産と消費の場の分離に基づいて、専ら消費の場として家族が位置づけられたことによって成立しました。家族が成り立つためには衣食住などに必要な物資を市民社会から調達しなければならないわけです。ところが家族自身には生産機能がありません。

❏財産があればそれを売って、生活に必要な財貨を手に入れればよいのですが、そのうちに家産を食い潰してしまう事になります。家産を元手に自己労働に基づく商工業を行って、利益をあげ、それで生活物資を手に入れる必要があります。特別家産のない場合は、当然自己の労働力を売って賃金を得る必要があったのです。

❏ところで市場での評価は期待通りにはなかなかいかないものです。投機や不正、金に任せた競争力、労働者に対する過酷な搾取などで大儲けをするごく一部の特権的な資本家階級がいるのに対して、一般庶民は一日中汗だくになって働いても、苦しい生活しか営めない場合が多いのです。しかし苦しいからといって働かないわけにいきません。そんなことをすると自分一人だけでなく家族皆なが食べていけなくなるからです。逆に言えば、どんな苦しい仕事でも自分一人の為だけではなくて、家族の為にもなると思えば耐えられるものなのです。

❏市民社会においては市民はそれぞれが一としての存在でしかありません。つまり全体の何千万分の一、何億分の一の存在でしかありません。「浜の真砂」の一粒、塵に過ぎないのです。もし家族がなければ自分を芥子粒のような存在として実感する他ないわけです。

❏市民社会の富全体の何千万分の一、何億分の一の富しか獲得できないのに比べ、家族にとっては、一家の働き手がもたらす富は「貨幣の魔術」に媒介されて分業のほんの一端を担っているにすぎないのに、それで一家が衣食住のすべてを賄うに足るだけあるのです。妻子にとっては決して何分の一ではなく、まさしく万物の創造主の如き存在であるわけです。ですから父は家族にとって神の如き存在と言えます。神が「父なる神ヤハウェ」と表現されるのはそのせいかもしれません。

❏一方、この関係は一家の稼ぎ主にとっては、家族が健康で成長してくれれば、家族の中ではかけがえのない存在として自己の存在意義を確かめられるのです。まさしく家族によって塵から全能者に転化することになります。その意味で妻子は父を塵から救って神にする「救い主」なのです。

❏このように互いに聖化し合える「神聖家族」だからこそ、自己愛幻想を家族に転化し合い、互いを幻想的に美化する事になるのです。これは逆に市民社会が相互支配や敵対の関係になっていて、互いの人格を貶め合い、手段化し合っているからこそ、その裏返しとして、家族は互いをかけがえのない存在として、いとおしみ合い、目的にし合っているのです。

❏家族の幸福は、市民社会の冷たさに一緒に堪える共同体としての連帯感から生まれます。ですから市民社会の安定は、家族関係の安定があればこそなのです。市民社会自身の再生産構造に家族が「貨幣の魔術」によって組み込まれ、自動安定化装置の役割を果たしているのです。

七、家族の崩壊

❏家族は冷たい市民社会に対して、肌を暖め合って助け合って生きるからこそ、充実した家庭の幸福を得ることができます。ところが生活が安定してしまい、しかも一家の大黒柱が頑張る必要もなく、社会保障や生命保険等で稼ぎ手が例え死んでも、えって収入が増えて生活が楽になるような関係になってしまいますと、本人も家族も互いを必要とし、聖化し合うような意識が起こらなくなります。

❏人格的な交わりを避け、適当に協調性を示しながらも、本音では引き籠もろうとするシゾイド人間の時代では、家族の対話はほとんど形だけになってしまいます。自己愛幻想が強くて、自分に相応しい「良き夫」「良き妻」「良き息子」「良き父」を求めていますが、この期待が崩壊しますと自分のプライドが疵つき、感情がもつれて疵つけ合うことになってしまいます。山アラシ・ジレンマを経て互いに干渉し合わないように距離を置くようになり、それだけ精神的な絆も希薄に感じられます。

❏自己愛幻想による全能感が強いと、決して取り替えの効かない筈の家族関係でさえ、自動応答機械と同様に取り替えが効くような錯覚に陥るのです。「良き家族」「暖かい家庭」の幻想が崩壊して、わがままな自己愛人間が山アラシ・ジレンマに疲れ果てますと、粘り強く人格的な愛情関係、エロス的人間関係を再構築していく努力を放棄してしまいます。

八、ネットワーク家族の時代

❏最近のアメリカ合衆国では離婚率が過半数に達していると言われています。離婚することが普通になってきているわけです。折角、家庭を造っても、一度は崩壊してしまうことを前提にやっていかなくてはならないことになります。アメリカ人はフォーリンラブしたら、すぐに一緒になり、愛情が冷めたら、すぐに別れるというように、情緒的に行動してしまう性格があるせいかもしれません。

❏元々結婚は生涯を共にするという神前で交わした契約に基づくわけですから、安易にこれに背くことは契約社会としての欧米キリスト教文明の根幹に係わる問題を含んでいる筈です。『バイブル』では「神の結びたもうたもの、人これを離すべからず。」とあるのです。でも愛の無い夫婦は別れてもよい旨の記述もあり、離婚したがったヘンリー八世は、この解釈を巡ってローマ教会と対決し、英国国教会を造って、その教義解釈権を握ってしまったくらいです。

❏家族関係が本当に何物にも換えがたい程大切なら、安易に結婚すべきじゃないし、また安易に別れるべきでもありません。でも実際、引き籠もりがちで自己中心的な現代人が、互いの人格を尊重し合い、欠点を許し合い、協調し合って一生を共に過ごす事は、それほど簡単なことでも、当たり前のことでもなくなってきていると言えます。

❏結婚、離婚、再結婚、再離婚を繰り返しますと、家族構成が複雑になってきます。父の連れ子と母の連れ子が新しい兄弟姉妹関係を結ばなければならなると大変です。自己愛人間が血縁の無い兄弟姉妹と家族的な感情を抱いていくのは相当の努力が必要ですが、その忍耐力は持ち合わせていないようです。父母も相手の連れ子を自分の子供として愛情関係を結ぶのは相当の努力を求められます。もちろん組合せにもよりますが、簡単に離婚するような人なら、それだけの辛抱はできないでしょう。

❏離婚の際に協議の結果、養育権を相手に渡してしまった血縁のある子供の事も気掛かりです。アメリカでは定期的に別れた子供と会ったり、別れた相手の家庭を定期的に泊まり掛けで訪問したりする慣習ができているようです。その上、血縁のある祖父母との関係は離婚後も続きますから、子供を巡る「ネットワーク家族」が形成されていると言われます。

❏離婚の可能性を前提にした夫婦間には一体感の欠如が深刻です。その犠牲となる親子感の断絶も厳しいと思われます。 結婚、離婚の繰り返しは弱い立場の子供をますます追い詰めてしまうのです。しかしだからといって離婚せずに我慢しろと言っても、現代人は我慢することが出来ない性格に成ってしまっていますから、それを無理に我慢させると精神衛生上良くありません。

❏ですから結婚、離婚の繰り返しによる「ネットワーク家族」の形成とそれへの適応は、既にその是非を問う段階ではないのです。いかにうまくその適応を成し遂げるかが課題であると小此木は指摘しています。いかにして「ネットワーク家族」の中でエロス的交流ができるのか、自然人としての血縁的愛着はどう充足されるのか、いろんな試行錯誤が繰り返されことになるようです。

九、家族から共同体へ 

❏「ネットワーク家族」は、夫婦とその共通の実子というこれまでの枠組みを破ります。血縁にこだわらない家族的結合の可能性が試されるわけです。『孝経』では子は親の「遺体」だと言います。親は血の繋がった子の中に不滅の自己を見出すのです。親孝行は、子が親の期待に応えて、親の遺体である自分の体を大切にする事に始まり、身を立て名をあげて家名を高める事に終わるとされています。血縁的結合、血縁による同一性の確認は家族制度の根幹を成していたのです。

❏綿々と血縁が受け継がれる家父長大家族の伝統はなくなりました。しかし単婚小家族の場合も子が親の血を受けている事は重要な意義を持っています。両親の愛の結晶としての子の養育は、夫婦の愛を再確認し、深め合う作用をします。「ネットワーク家族」で血縁にこだわらない家族的結合になりますと、血の繋がらない親子や義理の兄弟姉妹の断絶が夫婦間の断絶の原因になりかねません。

❏とはいえ「ネットワーク家族」への適応が課題となった現在、血縁の原理に固執していられないのです。血縁の原理に固執しないのなら、性行為の相手を固定する配偶関係を軸に家族を形成する必然性もありません。こうして配偶者同士が必ずしも同居しないファミリィも可能性としては考えられます。そうなれば家族というより共同体です。

❏家族的な同居を必要とする結合体が、擬似的な家族関係を造っている場合があります。キリスト教の新興教派の一つに「愛の家族(ファミリィ)」があって、身も心も一つに融け合って共同生活を送っています。彼らは教団の内部でフリーセックスを実践しているようですが、そのことは新しい家族のあり方として注目に値するとしても、セックスを布教や資金集めの手段にしているとすれば、世間の顰蹙を買うのは避けられません。

❏宗教だけでなく、小劇団、工芸家集団、任侠団体、思想団体、研究団体、党派、共同企業その他で集団生活をその活動の一環に取り入れるようになることが、ますます増えていくでしょう。その内、家計を共にする共同生活を基本にする社会集団が続々と出現するようになるかもしれません。

❏女性の社会進出が進展して男性同様に活躍するようになりますと、未来の共同生活団体も半数は女性になりますから、その団体の中で親密な男女から子供が生まれ、集団的に育児をするようになると考えられます。

❏共通の目標と仲間意識から、意気に感じ、全人格的なエロス的交流を求めて、新しい共同体、「梁山泊」に馳せ参じる人々が増えますと、それらは高い労働意欲と創造力を持ち、知的刺激に満ちているでしょうから、市場経済の中でも高い生産性を示すことができるかもしれません。そうすれば一定の社会現象として新しい共同体が、たとえ少数に過ぎないとしても、新時代の文化を象徴することになる可能性があるでしょう。

〔『家庭のない家族の時代』1983年、ABC出版〕

第九節、宇宙人=操作人間 

目次

一、宇宙人としての現代人
二、操作人間
三、〔機械=人間〕と〔身体=自然〕
四、人間の意識を生む構造
五、人間・自然関係の見直し
まとめにかえて

一、宇宙人としての現代人

ポスター画像❏私が子供の頃『宇宙大戦争』(1959年12月末公開)という題名だったと思いますが、火星人が空飛ぶ円盤で襲来する映画がありました。円盤の端から強烈なレーザー光線を放ちますと、人間などは消滅してしまいます。その印象が強烈だったので、よく光線にやられる夢を見たことを覚えています。

❏どのようにして撃退したのか忘れましたが、ラストシーンで破壊されて、もはや最適環境を維持できなくなった空飛ぶ円盤から逃れ出てきた火星人は、頭が大きくて、胴体は退化したのか、ありません。蛸のような足が何本かついていました。

❏火星人は、きっと便利な自動応答機械を使って、最適環境である宇宙船のような環境を作り出し、何でも機械に用を足してもらっていたので、運動能力が衰えて、蛸のようなくにゃくにゃの足になっていたのでしょう。胴体がないのは小さな薬で栄養を賄えるので消化、吸収等のための器官が必要なくなったからかもしれません。機械文明の更なる発展によって、身体的能力が将来退化することを予想しているのです。

❏現代人はあの「火星人」のように身体器官までも退化するには到っていませんが、空飛ぶ円盤の宇宙人と共通するところがあります。自動応答機械があらゆる部面に応用され、いつでもお好みの環境を維持しようとします。空調装置は一年中駆動していて、常に摂氏二十度前後の快適な温度と適当な湿度を保ってくれます。徒歩十分程度の短い距離を移動するのでも、面倒がって空調の効いた乗用車を利用します。

❏夏の暑さ、冬の寒さも享受してこそ自然人としての生命環境に生きる事になる筈です。一日の昼と夜の明るさや温度の変化、一年の春夏秋冬の季節変化は、生命の健康なリズムを形成してくれるのです。自然が本来与えてくれる環境変化のサイクルに慣れ親しむ事を拒否してしまっては、個体としての生命が、自然全体という生命から断絶してしまうことになり、従って自然環境の破壊そして健全な生命力の枯渇を招くことになります。

❏自動応答機械とはスイッチ操作一つで需要を満たしてくれる装置を指します。自動販売機や空調装置、テレビジョン、ワープロ、パソコン、各種のロボット装置等が含まれます。風呂や電気洗濯機なども自動化が進み、建物や家屋や乗用車全体がそのまま自動応答機械になりつつあります。それらは居ながらにして欲求を充足させてくれるので、人間の全能幻想を満たしてくれるのです。我々は次第に宇宙船の中に閉じ込められつつあるのです。いずれ「宇宙船」の中ではあらゆる体験が可能になるでしょう。大自然の中を旅したいとお望みならば、疑似体験装置のスイッチを入れて希望の自然環境を注文すれば、実体験に劣らないリアルな経験をすることができるようになるのです。

二、操作人間

❏最近、多くの若者はいつも耳にイヤホーンを装填していますね。ひどい人になると食事中や対話中でも、もちろん勉強中でもイヤホーンを外さないんです。授業中に外さないと教師に怒鳴られます。もっとも大学などでは注意しない教師がいるようですが。

❏きっと自分の好きな音楽かラジオ番組に聞き入っているのです。これなどは典型的なシゾイド人間の同調的引き籠もりです。一応みんなに同調してトラブルのないように参加だけはしているつもりなのです。でも全人格をかけて他人と交わり、相手と苦悩を分け合い、喜びを共有しようという積極的な人間関係を結ぶぼうとする気持ちは、残念ながら希薄なのです。

❏現代人=「宇宙人」は、自動応答機械とのコミュニケーションに大半の時間を費やします。自動応答機械は感情を剥き出しにしたり、逆らったりしないので安心して関われます。いつも従順で対象喪失の心配もありません。それでいて我々が他人に期待する以上の反応を返してくれます。人間の音声や映像などがインプットされているものもあり、あたかも本物の人間と関わっているかのような錯覚を作り出してくれるのです。

❏個人間の場合は、深く関われば関わるほど、アンビバレントな愛憎関係の緊張に堪えなければなりませんが、相手が機械ですと、気楽に、気が向いたときだけ相手をして、後はスイッチをオフしておけばいいわけです。対人関係を避け、自動応答機械との関係に没入しようとするのは、ある意味では引き籠もりですが、一人で瞑想に耽ったり、夢を見たりしている状態とは違います。というのは自動応答機械には人間を代理する機能がありますから、「孤独感のない孤独」の状態だと小此木は呼ぶのです。自分の心に引き籠もるのを一、対人関係を二としますと、自動応答機械との関係は「一・五の世界」になるのです。この世界に生きる宇宙人を「操作人間」と呼ぶのです。

❏小此木によれば、一・五的な関わりが日常化し、最も適応しやすい心のあり方になってきますと、本来は一対一の人間同士の対象関係までも一・五的なスタイルで処理しようとするようになるそうです。本来取り替えの効かない筈の家族関係や、恋人や友人との関係も自己中心的に、スイッチを入れたり切ったりするように扱い、相手が自分の思い通り行かなくなって、独立した人格としての交わりや承認を求めてくると、煩わしくなって、取り替えようとするわけです。

三、〔機械=人間〕と〔身体=自然〕

❏自動応答機械は機械なのに半人間として、家族や友人などは人間なのに半機械として扱われる「一・五の世界」は、人間と機械が倒錯的に入れ代わる現実を問題にしているわけです。精神分析学ではあくまで人間は身体的存在であって、その意味では機械は身体でないから非人間的存在なのです。ここに精神分析学の身体主義的限界があります。

❏自動応答機械と人間身体の関係を見直しますと、果たしてどちらが人間存在で、どちらが自然存在でしょうか?人間を身体に限定して捉えている限り、全く自明です。身体が人間存在で、自動応答機械が自然存在だということになります。ところで自動応答機械を通して作り出される人間環境が、人間身体に与える影響を考えますと、一見、快適で最適環境のように思える人工環境が、身体の生命力に与える弊害が問題になります。

❏自然環境の保護が声高に叫ばれ、人間中心の考え方に反省が迫られています。自然環境を守る最後の手段は人間の絶滅であるなどという意見が、ペシミスティックに語られるようになりました。

❏しかし自然環境が良いか悪いかを計る基準は果たして何でしょう?まさかバクテリアではないでしょう。珍しい蝶々でしょうか?絶滅寸前のトキ鳥の生息数でしょうか?空気中の有毒ガスの量でしょうか?結局は、人間身体に与える影響が少なければ、そのせいで他の生物種類が減少しても、自然破壊は深刻だとは受け止められないでしょう。

❏逆に他の生物には快適環境が生み出されても、その結果人間身体に致命的な悪影響をもたらす変化は、非常に重大な自然破壊と受け止められるに違いありません。我々にとって自然とは、所詮人間的な自然なのであり、直接的には人間身体とその生態系に他ならないのです。

❏逆に自然的なものに対置される人間的なものとは何でしょう?人間の手のつけられていない自然に対して人間化された自然、その極端なものが機械ですが、それこそ最も人間的な存在なのです。

❏機械は人間が自然を一定の形に作り変える装置です。人間の実践的意思が、物質的な機構として定在している物なのです。

❏もちろん機械もマテリーとしては金属などで造られている自然物には違いありません。人間身体も人間の身体である以上人間存在です。でもここで問題になっている人間対自然の自然環境問題に即して考えれば、むしろ機械が人間で身体は自然の契機に当たるわけです。

「日向あき子『イメージを読みとる」の画像検索結果❏日向あき子は『イメージを読み取る』(講談社現代新書)で、機械と人間の共生を、古代における蛇と人間の共生に対応させます。同じ人間と自然の共生がテーマでも、古代における蛇は自然を代表しますが、現代における機械はむしろ人間を代表します。こうした人間的契機の取り違えは、人間の意識が人間の身体的な活動でしかありえないという思い込みに根を持っているのです。

四、人間の意識を生む構造

❏人間の意識を生産する主体は人間の身体であるという面に固執しますと、意識をあくまで個体の意識として捉えることになり、幼児体験に精神的な疾患の原因を還元してしまう「原体験主義」に陥ってしまいます。これが精神分析学の根本的な問題点です。しかし現実には人間の意識は、社会関係が自己再生産の活動の一環として生み出したものなのです。それは社会関係に包摂された諸個人の意識だけでなく、社会的な諸事物の示す論理や関係としても存在するのです。

❏人間の意識を意識内容から切り離して、脳髄の活動や自我の活動としてだけ捉えてはいけないのです。我々は目を瞑って、

❏様々なイメージや言葉を思い浮かべて思考します。その意味で、たしかに思考は主として脳髄の活動であると考えられます。しかしイメージや言葉は元々事物に関して形成されたものです。ですから社会的な諸事物が脳髄を介して、自らの論理や関係を定立しているのが思考だという面もあるのです。つまり「思う」とは「物思う」事なのです。これは「あはれ」が「もののあはれ」であるのと同じことです。

❏思考過程を対象化する際、そこに意識主体としての自我をいちいち登場させるのは、思考の中断を意味します。自我が思考ており、思考内容を産出していると考えるのは、自我を実体的に捉えているからなのです。

❏この問題はホッブズのデカルト批判で触れましたね。ホッブズは思考過程を、諸事物を代理する多くのイマジネーションの連結や並び替えとして捉えたのです。つまりイマジネーションそれ自体の物質的な運動が思考なのです。自我とはイマジネーションを運動させたり、作り出したりする主体でも、活動でもないのです。イマジネーションがその人において示す繋がり方の傾向が、他の人の場合との比較で一定の共通性や差異の特色を持っていることを、所有関係に準えて、実体化しているに過ぎないのです。

五、人間・自然関係の見直し

❏機械と人間の対置は正確には、機械と人間身体の対置なのです。身体以外の社会的諸事物と身体(身体も社会的諸事物に含まれます)を含む総体を人間として捉え返さなければなりません。その構成要素はすべて人間の定在なのです。それらが互いに働き掛け合い、相互に再生産し合う関係が社会関係なのです。

❏開発によって非人間的な自然は人間的自然に組み込まれ、社会的諸事物に包摂されました。グローバルな規模で開発が進展していますので、今や地球環境全体が社会的諸事物にオーバラップしています。その過程で自然の元の姿が大きく変形しつつあることが、自然破壊として問題になっています。しかし青い空や青い海、緑なす岡辺、沢山の動物たちの居る大草原や大森林、澄んだ水が流れる街、毒されていない豊富な食料品等々我々が目指している自然との調和や環境は、結局人間身体の健康にとっての最適条件なのです。

❏このような最適条件を生み出すには、人間個体的身体を破壊された環境から密室の人工環境に閉じ込めて保護するのではなく、自然全体の人間化という段階を踏まえて、総体としての人間の生態系である地球環境を人間の持てる文化的能力を総動員して最適化することです。

❏実は身体=自然にとって人間環境を最適化することは、人間環境を構成する重要な要素である機械=人間を、身体=自然に調和させることに他なりません。我々は機械文明を介してしか地球環境をコントロールする能力を持ちません。機械等の社会的事物を含む人間として自然環境を身体に最適化させるという観点に立つべきです。

❏ですから根本的には、人間存在を身体と機械等の社会的事物に分裂させ、前者を主体=目的、後者を非人間的な物として客体=手段に固定していた関係を見直し、総体的な人間の両契機として、相互の働きかけ合いによって意識や文化が形成されるものとして捉え返されるべきなのです。

 まとめにかえて

❏紙数の関係で詳しいまとめははしょりますが、小此木は現代人の精神病理の豊富な観察を通して、我々が直面している人間的、社会的な諸問題を分かり易く、納得いく形で示してくれています。今後とも彼の人間観察の視点を学び、自分自身の様々な心模様を解きほぐしていきたいと思います。本稿は人間論の一環ですから、彼の議論に関連して、精神分析学が持つ意識形成に果たす社会的契機や事物的契機の捉え方の不充分さを詳しく記しておきました。小生の言わんとする「人間観の転換」の必要性の一端をご理解いただければ幸甚です。


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